認識論

Badiou,Alain2007"Being And Event",Continuum

バディウが??ま。無限小からライプニッツを経て、ここに行き着くみちくさも。。また。。。

Cohen,Paul J.2008"Set Theory and The Contiuum Hypothesis", Dover

でも。

ツェルメロまで召還しちまって、無限小解析ていうかナントカ集合になっちゃったよっっ!

ルディネスコ2012『ラカン、すべてに抗って』河出書房新社

上のような乱文なんぞ、ザラなブログ類の記事の類である。が!である。ドゥルーズは兄のようであり、セルトーは厳しい父のようだった。だが二人とも、一九六八年五月以降、若い毛沢東主義者たちがテロに傾倒していくのを回避させてくれたのだ。こういう明白…

村岡晋一2008『対話の哲学』(講談社メチエ)講談社

ま、もっともこんなpoliのたわ言なんぞ置いといて、村岡晋一によるこんなシンプルにしてビリビリくるタイトルの付いたも〜ホントまっとうな参考書がちゃんとある。

ちなみに

カントが『純粋理性批判』に『プロレゴメナ』を添えたように、本書はあのトンデモナくも浩瀚なおなじみ凶器本自著『救済の星』に添えられたものである。この『救済の星』を先達としたベンヤミンのあの閃光弾たちもまた、周囲が持て余し放逐した『ドイツ悲劇…

ローゼンツヴァイク, フランク2011『健康な悟性と病的な悟性』作品社

ジンメルとか、ベンヤミンとか、アドルノとか、閃光弾を放つようなエッセイストな思想家というのが、あのジクジクと水虫かよ、、、クドクドしたカントと同じ風土から生まれるとは。(あ。いやカントはロシアかむしろ。しかもジンメルはストラスブール。なわ…

永井均2012『ウィトゲンシュタインの誤診 -『青色本』を掘り崩す』ナカニシヤ出版

あの太田光を塗炭の苦痛に叩きこんだであろう(しかも不可抗力に)に、そのうえで労をねぎらう弁を打つ、あの柔和な顔した悪魔、永井均先生の近著。過日に触れた黒崎宏の素読のそれとはやはり違うアプローチを取っている。いや、本人としてはその種のモノに…

ヘルムホルツ1999『自然力の交互作用―対訳 (大学書林語学文庫 (814)) 』大学書林

膠着まがいの共生を変じるのは、どちらか一方なのか。それとも追いすがってきた別物なのか、、そういえば (またどっかの中二病中年のツイート前半) こういった二者がともに糧としているのは何なのだろうか (またどっかの中二病中年のツイート後半) 追いすが…

ちなみに

上でいう悲劇なんて自己憐憫か何かに還元するだけのこと、つまらないなんて自分がつまらなく受け取ってしまっているだけだ。子どもは大人よりキレイなのではなく、そういうものを、まんま・ジカに・つまらないこだわりなく・背景の情報が乏しいなか受取るん…

情報と対置するもの

さて、ではじゃあ何を?とこの発言者=宮崎駿は自ら御す表現媒体=アニメーションの存在意義を"単なる情報"と対置させているか。 でも、子どもたちの心の流れによりそって子どもたち自身が気づいていない願いや出口のない苦しさに陽をあてることはできるんじ…

情報でさえ、、、、

本来知識はスカラー化されているもので、一方情報は流動化の体裁をとっている。そこから知識へと看取する=固化するに満たない情報そのままをしばしば誤認する。〜どっかの中二病中年のツイート こんなもどかしいのより、もっと的確な把握が、、、、 本来、…

榎並重行2012『ニーチェのように考えること』河出書房新社

こういうのも買うんすね、稲葉先生も。 当然にも、この本は遅れている。鍛錬は期限を切らない持続を要する。また、もはや不作法(ママ)に汗すらかかず、認識することの仕方を教えられることも待たず、認識することを、最新の技術によって情報を取り込み、切り…

中山元Worksは続く、、、、

熱狂醒めやらぬなかっめえだけな、既にこれがはじまっている。 『資本論 第1巻 I 』(日経BP 2011) なんか持ち上げられているヒトにも既に手をつけているし。 『人間不平等起源論』(光文社古典新訳文庫 2008/8) 『社会契約論/ジュネーヴ草稿』(光文社古典新…

カント(中山元訳)2012『純粋理性批判』7 光文社古典新訳文庫

同窓会会場をうっかりUターンしそうな衝撃から、はや2年。。。嗚呼、、バカ、 ついにかんけ〜つ!!!うるせえ!!

田邊元2010『哲学の根本問題・数理の歴史主義的展開』田邊元哲学選3 岩波文庫

田邊元2010『種の原理』田邊元哲学選1 岩波文庫

と、付け足し。。

少なくとも、、脱構築は、大学=善、自治体=悪という腐臭に満ちたベタを消臭するがために施す鼻薬では断じてない。こんな用法をなすから蒙昧主義とかいう誤解に押し切られるのだ。Bad Tasteである。

ま。。

可能性の中心のヒトとか、やたら否定神学を多用するシャクレさんとか、当初は説明するための方便であったのが、主旨に昇格してしまっているから読者は大混乱である。だから物自体まで「オレは変化を見たぁ!!」となってしまうのではないか????

ちなみに本人は、、、

Derrida2006"Specters of Marx"Routledge 亡霊!マルクス本人も口走っちゃっているからって、また揺さ振るね〜。。。

例えば、、、

(((マルクス主義)の可能性)の中心)とかいうのがあるわけだが、 せっかくの可能性が中心で帳消し(cf.すきのはんたいのはんたい)で、残っているのは元の(マルクス主義)じゃねぇか?

気を取り直して。またこれ。。

否定神学と自身の方法論モドキたる脱構築との差異をこの三つの試論をもってようやく成すに至った、というものである。前者は、神という不動点の一者を培地に論旨を展開する。しかし名という可能性(=動点)を培地に時には行為遂行だの出来事だの複数性だの…

けども。。

poliが読んだ感じでは、これが最もアテにならないので(2355の石澤典夫風味で) 脇でHite-Shingaku!!とうるさいので、脱構築とかいうウワバミがその否定神学 を呑みこんでしまった、というおはなし。 、 、 、 良き夢を。(こらこら)

デリダ2005『名を救う』未来社

過日、否定神学三部作の最終作とかpoliが言っていたが、デリダ自身は、 ひとつの与えられた名についての三つの試論 と、前書きに明言している。

デリダ2007『絵葉書1−ソクラテスからフロイトへ、そしてその彼方−』水声社

誤配は、誤配そのものではなく、誤配"とみなされるようなその状況"を指しているようである。だからデリダは"可能性"なる語句をつけて用いる。つまり誤に対置する正が明確に把握できている状況にあるわけでは断じてない。

Derrida2008 "Dissemination" Continuum

概念へ直行することを忌避し、未決の箱に保持させたような概念"候補たち"。これらの散布状態を散種といったり、これらの因子個々をフロイトの印象に当てはめて説明したりと、あれやこれやと腐心するデリダ。エポケーの身振りと相同な彼のそれは、やはりデリ…

Yerushalmi1991 "Freud's Moses" Yele University Press

Derrida1996 "Archive Fever -a Freudian Impression-" The University Of Chicago Press

デリダ2011『アーカイヴの病−フロイトの印象−』法政大学出版局

なんで考古学しているかというよりも、、

なんで考古学に惹かれるのか、というほうが直截な問いだろう、というのが、伊皿木さんのコメントからも伝わってくる。poliにとってその問いに対するどうでもいいクソ回答があるとすれば、遺跡から突如表れるまんま露出した現象面が、自分の認識という名の"も…