2013-01-01から1年間の記事一覧

それにしても。

それにしても。となるとだ。反対側からはこんな怨嗟の声が?ふほは、違うか、、 古いこの酒場で たくさん飲んだから 古い思い出はボヤけてきたらしい 私は恋人に捨てられてしまった 人はこの私をふだつきと云うから ろくでなしろくでなし なんてひどいアーウ…

カサノヴァ1797『我が生涯の物語』(1995 河出文庫)

今も昔も、リア充の言を聞かされる、あるいは読まされるのは、毒々しい。。。(おい)

だから学社連携という語句は、大嫌いなのだ。

文化財保護という権力行政と教育の区別ができなかった、無思想だったのだろう。 う〜む、学校教育ほど、なんだかんだで権力を渇望する環境もないではないか。で、カッテにいがみ合って荒廃し、コンテンツに手が回らずアウトソーシングする。だから自前でやれ…

朝日遺跡の検見塚

と、つぶやかずにはおれず、poliは、さらに検見塚へ視線を移す。 自動車道に埋没、累層させ不可視となってしまうのも、消費の作法からなかなかポストできない、超えられない、アポリアな表象。 各自異なる選好によって、思い思いに地所はおろか、空間をも消…

時は流れ。。。

SNSとかいう、全然ネットワークしてない即席カルトみたいなCocoonが無数に転がっている。藤森がみた"グルと弟子たち"みたいな、娑婆っ気ないそういう"ぷち世間"がそこいらに。そんななか、遺跡を体験学習の場にするという。共有地の悲劇における、共有地とし…

濱田青陵1922「第五編 後論 第一章 考古学的出版 八三 出版の義務」『通論考古学』(2004.雄山閣)

いずれも戦前のメッセージである。彼らは、日本考古学の学問としての草創期を経、半ばに至ったところをいた。ちなみに藤森の言にあるH博士は濱田のことである。いわば濱田の作ったこの学問を受けその限界を衝いている、といえる。 両者からは、学問が拙いな…

藤森栄一1938「掘るだけなら掘らんでもいい話」『考古学・考古学者』(1974.学生社)

豚、はなちますか?

と、言っても、意図が分からないかもしれないですね。それにしても、風土記の丘。歴史の里。◯◯歴史公園。なんなんですかね。自分で自分を褒めてあげたいヒトの記念物か何かですかね、これは。

見田宗介2008『まなざしの地獄』河出書房新社

ヴィルノ、パオロ2004『マルチチュードの文法』月曜社

"見入る"のも、過ぎたるは毒! になってしまっている。解放という自由の難しさから逃避するために見入っているなら、ほんと毒だね。単系への収束なんて然り。。ひつこい、、、、 ランシエールは上の自著の方が、「アルチュセールせんせいがおっしゃるには、…

ランシエール、ジャック2013『解放された観客』法政大学出版局

ドゥボール、ギー2000『スペクタクルの社会についての注解』現代思潮新社

ドゥボール、ギー2003『スペクタクルの社会』ちくま学芸文庫

松田政男2013『風景の死滅 増補新版』航思社

2013/10/26 戦後の日本とフランスにおける埋蔵文化財保護行政『連続講演会<日仏における考古学と埋蔵文化財>』於:日仏会館(恵比寿)

梅原末治や金関恕の丸パクリか!!とか言わないように。モノとヒトの関係の結び方。これが、この陳腐に響く染み付いた生活観のようなものが、日本考古学の関心の中心にあって、また先の単系の進展観の誘惑に動揺することなく分析するための基底たるものとし…

ちなみに。(もういるのかもしれないが、)

LINEはフォネー(声)のre-gainである、という発想がもたげてくるというのなら、安易な妄想であろう。つの丸、というかマキバオーのスキンヘッドみたいなアイコンや写真が飛び交い、明らかに「見る」ことを誘っている営為ではないか。単に2chのlegacy化にみた…

そもそも生業に例えるならば、、

享受者のいないシステムを開発するSEなんて、crazyなアレであろう。違和感の何者でもないのである。

、、したがって。

データベース化と目することのいい加減さの、そのいい加減たるところは、使い手と享受者が未分離、というよりもその発想には使い手しか存在しないのである。

DBの話に戻れば、

この数年、ビッグデータというコトバが独り歩きしている。ここでnoSQLというタームが同時に飛び交い、これを差してRDBMSの後継などと書き立てる向きがあるが、結局のところ、これも単系的発想の帰結に他ならない。升目から層へカタチを換えただけのことであ…

しかし。

これは2つの別箇の流れを一緒くたにしているという視点もまたある。先の複数性であらわれる群集墳のあり方は、高塚古墳の単独性、あるいは惑星+衛星様のユニット構成の推移からみれば、葬制の世俗化が進んだもの、と見、翻って寺院の建造ひいては大仏の建…

考古学を例に。。。

これは周知のことであろうが、横穴古墳、積石塚なるものの特徴として、単独で在ることは皆無ということがある。いっぽう、これに前駆する段階の高塚古墳と称されるものは、単独、または陪塚という、対象よりも小型の複数の墳墓が付属するに留まる。 この背景…

東浩紀2001『動物化するポストモダン』講談社現代新書

データベース化というプロセスに「推移する」かのような説明を目にした段階で、本を閉じて、屋根裏に投げ込んだ。も〜〜こういった単系的発想には辟易していたからである。単なるブレイク処理だろ、これ。。

(本当はフハー)

ネコという種には、ドラマがある。ただでさえ。そもそも、poli個人、鼻の下の、あのモフっとしたネコ殿の面体自体、思い出すと失礼ながら失笑。。なんなんだあのヒゲの生え方とか!!で。去勢なんて人間様の事情なんてもんが加われば、ますます混迷を極める…

しかし。

この拮抗の劈開をもたらすのは、裡なる自己の否定か裡なる自己の肯定か、はたまた両者を看たうえでの裡なる自己の止揚、か? この問いは、どうしても立ち塞がっている。何年たっても。。。。ああ。そうそう。行政内研究者などという開き直りは、解決でも何で…

嗚呼、、、poliなんぞ思いつきだ。。。。

ステレオタイプで聞き飽きた感がする。だが、正しい。 過日、検見塚を行き交う人々を思い記したナイーブなpoliの言なんぞに比べ、、 懇切で直球でいまいましいくらい。だが正しい!!! 説明を厭うpoliの怠慢が際立つ。。うう。

失望の検見塚。人々は去り、別の人々が集り、今日の検見塚ができあがった。

失望の検見塚。人々は去り、別の人々が集り、今日の検見塚ができあがった。 〜前掲のブログ記事、「失望の検見塚、希望の検見塚」より 人々と入れ違いに入ってくる別の人々、この変化。そしてもはやこれを所与とする事態は、枚挙に暇がない。これも、要する…

ああ、まあ。そりゃ。ね。

そういうトコロですよ。そこは。。 彼らのように経済活動を模索する気があるというのことなのだろうか。あんなにそういうことを毛嫌いしてきた畑の面々が、なんでこんな選択をするのか。甚だ疑問なんですけど。 岡本俊朗たちによって、とっちめられたそこの…

久しぶりに目にする。このコトバ、、

脚本でなくて、自身から発露したコトバ、だったわけですね。。。 中途半端な正義は一番の悪。。。 〜南波次郎こと松本人志 サンデルを褒めそやすなら、こっちもアリなんでね〜の、と常々思っていた、至言、である。

細田衛士1999『グッズとバッズの経済学』(第2版 2012)東洋経済新報社

仮に動産として、その先に生じる新たな言分けを、、、環境経済学は議論していたりする。

リンチ,ケヴィン1994『廃棄の文化誌』工作舎(新装版 2008)

ところで、貝塚研究のヒト、こういうのは、読まないんすかね???新装版も出たことだし。廃棄されたモノ、廃棄したヒトの所作。。