2007-04-01から1ヶ月間の記事一覧

ちなみに

かれがこのことで煩悶するのは、毎日毎秒のレベルであろうことは、 松本人志『遺書』朝日新聞社 と、まあ、比較的早くから知られている。 もっともこれさえも本人はふっきれていて、煩悶もネタである、という見るむきもあろう。いずれにせよ、poliは胆から面…

Interactive Miss-Communicationに煩悶する松本人志

自らがメッセージに込めた意図から逸して伝わってしまった発信者が、その無理解に悶絶している姿がよく現れている。 思うてる以上に伝わりにくいもんなんすよ、お笑いて (映像中の松本人志自身のことば) お笑いだけがこのリスクを背負っているわけではなく…

ロバート・N・プロクター2003『健康帝国ナチス』草思社

父に貸したまま、ろくに読んでいなかった。ちゃんと読もう。 、、ま、というか。これだけに留まらず、〝彼ら〟には〝一応〟生産的な面もあることは、経済的な面に於いては、 小室直樹1993『国民のための経済原論〈1 バブル大復活編〉』光文社 にも紹介されて…

か、科学的精神、ね。

どっかでみたような、ビチビチとエアキャップのようにタームと数値が増殖する説明体なテキスト。敷き詰めなければ不安だったのだろう、この報告者は。 で。伊皿木さん、この報告に際して『ショアー』。ときたか。 〝彼ら〟が科学的精神に醸し出したその気色…

、、う〜みゅ、また脱線だ。もとに戻して。

ブルデューのハビトゥス、今道の技術連関、ヒトに媒介するもののこの二つの像は、過日に示した、メンガーに叩かれている独断論もない交ぜになっているシロモノであろう。それこそ、そういうものをも仕分けるべく、二者が分け入っているとみることもできる。 …

今道友信1990『エコエティカ 生圏倫理学入門』講談社学術文庫

別府昭郎さんが教育学の講義で紹介されていた。ま。これも10数年ものの積ん読である。う〜むそこから想起かよ。まいいや。 本書の柱のひとつを担っている技術連関がそれである。まずは序文より。 科学技術は手段としての性格を維持したまま、それを超えて…

ピエール・ブルデューほか1990『ピエール・ブルデュー 超領域の人間学』藤原書店

いやあ、こんなところで、〝和泉の積ん読〟が日の目をみるとは。あ、コッチの話で。何年前の話だ。生協はあるのか?まだ。 ま。ともあれ。 ここでは、ブルデューの、廣松渉と今村仁司との対談に注目する。 ハビトゥスの概念を通して私が記述したいと思ってい…

あ。そうそう。レッシグ本人は、

二つのアーキテクチャのうち、どちらを選んでいるか。 ゾーニング方式には法律が必要で、フィルタリング方式が個人の選択しか必要としない場合でも、わたしはゾーニング方式を指示するだろう。もし国が法とアーキテクチャのミックスを変えようと動いているな…

もとに戻すと

このアーキテクチャという発想。それを手にする者の意図によって、統治の閉塞を打開する手段にもなるし【フランスの革命家・若きジェイコブス】、統治を構築する力【晩年のジェイコブス、そしてレッシグのアーキテクチャ観】にもなるということを示している…

ジェイン=ジェイコブス2003『市場の倫理 統治の倫理』日経ビジネス文庫

この小説を介して、ジェイコブスがシンパシーを寄せた統治の形態とは、プラトンの哲人政治である。poliには、ジェイコブスからリバタリアン臭がプンプンする。なぜなら、あの無い物ねだりで無茶ぶりな自生的秩序の待望のなれの果てである、少数の哲人による…

ローレンス=レッシグ2001『CODE』翔泳社

ここで突っ込みが多分2つ。一つは、 ガイシュツだろ!! ということ。それから前回の、 制度の実体は、その使用をも帯びている。ということである。 (2007-03-27の5段目)と、そのガイシュツに記されている。 情報とその使用とがなす形態は、制度のそれを帯…

東京某所・Mikky-D内+自宅・2F

月曜日に拝聴した内容の濃さに、若干こう、自家中毒。である。過日鬼の城さんとのコメントで話題に上らした〝ちょっと昔〟の展示の話である。 共同幻想というと、実は昨日、fischeさんが、昭和30年代の展示への疑義について、集客を考慮する余り多数の〝懐か…