2008-05-01から1ヶ月間の記事一覧
日本民俗学の父はいうまでもなく柳田國男であるが、その柳田に民俗学に生きることを決意させたのは、南方熊楠その人だった。アカデミズムを遠く離れて、好事家と士大夫と文士を兼ね備えたごときリテラリイなる英国知識人の一類型に自分を擬していた熊楠は、…
暴風雨を忌避し、登頂断念したヘタレなpoliが、きましたよ〜フル、、、、、 Tクマさん、そんなわけです。すみません。相模川こえられませんです。
いや、この人の命日から。しかも今年に限って、あの日と同じ土曜日。あの日は、毎回と同じように、着々とネタを仕込んで、博物館を尋ねようと自宅を出ようとした時点で、電話がなった。わけだ。 、 、 、 脱力。とはああいう状況をいうのだな。 、 その場で…
厨先生のこの注釈は、いやなんともていねいな。 もっとも。 厨先生にとって御贔屓の両氏を出汁に、わからんちんに向けてさらにくわしく述べるレトリックとも言えなくないか。しかし、わからないでストップするのではなく、そこから掘り込みを促すという態度…
模索を促してくれる、と雨乞いのように外部効果を期待する、どころか内部化せんとする参加型博物館論がひとつの枠組みを担ってきたことは無理からぬものを感じる。次の鏡を求めるのであれば、同種の選好が継続するのであろうか? web2.0という語句が現れた背…
逐次!恣皆!!その刺激を受け取るのか?という問い、というかそういう態度の極端さへの疑問は、既に博物館の図書室の司書さんのところで提示されている通りであるが(これなど)、アンケートや諸々の調査で全て吸い上げることができるというのは、そこに、…
赤松の二つの問題意識とともに、相沢から照射されるのは、著者や赤松が2分する「知的」/非「知的」の振り子と相同して、中央と地方とのあいだで、人的関係も含めた間接的な情報の非対称性が発生している状況下に、博物館が出来している、という把握である…
ちなみに同地域の情報の保有形態の近年の様相に目を移せば、poliは、本書にその一例を見てしまう。
五月のこいのぼりが姿を消すと、十七、十八の両日は、浅草寺の境内の三社さまの夏祭りであった。 はじめてのこづかいとして「つまらない物を買わないで貯金するんだよ」と、講釈つきで十銭玉ひとつをもらった。その十銭をふところに、浅草の観音様へ遊びに出…
著者は、以前にも赤松啓介の民博への眼差しを通して、危惧を表明したことがあった(2003年『あいだ』94 論考)。poliは、この、「知的」なもの=博物館と非「知的」なもの=見世物、という二分をまたがる存在としてなぜか想起したのが、相沢忠洋の少年時代の…