気を取り直して。またこれ。。

 否定神学と自身の方法論モドキたる脱構築との差異をこの三つの試論をもってようやく成すに至った、というものである。前者は、神という不動点の一者を培地に論旨を展開する。しかし名という可能性(=動点)を培地に時には行為遂行だの出来事だの複数性だの触媒をドバドバ投入したりもするのが後者。デリダはあくまで立脚する培地を一所に留めることが堪えられないのは一貫している。

意味じゃねぇんだよ、散種だって言ってんだろ!!!

とか

応答じゃねぇ、応答可能性だっ!!!

とか、そこのところ、なかなか頑固な汚れスタンス。