polieco

「否定神学への焦点が残されたままだ!!」

とする指摘があるが、そりゃそ〜だろ。そいつのほうは『有限責任会社abc』の後に急展開する話題なのだから。確かに言及はあるものの、もはやそこには絵葉書という導きの糸は消えてしまった状態で語られているし、2大家の視座をも包括しても足らないと東は捉…

デリダほか2005『テレビのエコーグラフィー』NTT出版

ということになろう。ちなみに最近の日考協と某連合王国のウサンクサ団体のドンパチに際しては、この中のアーカイブにまつわるetc.が示唆的な感じがする。 感じがすると思っただけだって。

Derrida,Jacques 1998”Archive Fever”,Univ of Chicago Pr

絵葉書で宙吊り〜宙吊り〜言われている2大家についてのデリダの読みは、やはり上掲の2著でひとまずの着地をしたのではないだろうか。 先のラカン=ジジェクという、"東手製の"補助線を引く直前がまさにこの後者に触れている部分であり、ここでは『アルシー…

デリダ2009『精神について』平凡社ライブラリー

一応ああいうタイトルであるし、

全編にわたって郵便〜, 誤配〜, とまあ譫ごとのように唱えて苦しソ〜なわけだが、結局、『有限責任会社abc』の絵解きに移って、ようやく終局ギリギリに論旨が救済され閉じる。本書はそもそもそんな構造をしたテキストである。

東浩紀1998『存在論的、郵便的』新潮社

浅井田陰とか空桶谷弁人とか、そんなもん身に纏わないほうが、東, デリダそれぞれ主張を明快に分けつつ論旨を展開しやすかったのではないか。 首取り武者もクラインの壷で叩かれずにすんだかもしれないし、 「デリダは、中途半端ではなく、ちゃんと数学基礎…

デリダ2005『名を救う』未来社

これにも明言もないわけだ。 ちなみに。著者様がご執心の『絵葉書』が1980年に上梓、その固執を救った『abc』が1990年、上掲書が1992、つづいて1993に上掲書との否定神学三部作と目される『コーラ』と『パッション』。時系列に置くと、そんな位置関係となる。

でも。

意識を向けてもらいたいのは、こういう来歴・環境に育まれた哲学徒によるテクストのたった一枚のカード=絵葉書のみに本書はあまりにも翻弄されすぎではないか、といいたいからだ。 東自身があとがきで表明する袋小路や、迂回というか難渋ばかりを引き起こす…

ま〜、、確かに。

この絵葉書という道具立てがデリダ自身のお気に入りであったことは、その後訳出された、、、

こういうところは、

かつてテル・ケルに属していたデリダのもう一つの貌といえないだろうか。 テル・ケルが意識したであろうウリポ工房のイタロ・カルヴィーノやジョルジュ・ペレック、特定のグル―プに属していたかは知らないが、ミシェル・ビュトールもテキストを編むために、…

デリダほか2008『言葉を撮る』青土社

の映像部分からも伺うことができるが、彼がきってきたカードはこれだけではないし、上掲書近くに上梓された『パピエ・マシン』にても、あれかこれかとカードをきっているではないか。

ちなみに。。

さらに『アーカイブ酔い』に関していうと、その思索の成果を試す彼の言説を活写しているのが、度々引き合いに出す、スティグレールとの語らい、、

佐藤健二1987『読書空間の近代』弘文社

柳田國男『山の人生』(poliはこれで)とともに紹介されていた。他に本書の評を目にしたことはまだじつはない。多分この佐藤の文脈があまりにも刺激だったからだろう。

M.フーコー2010『ピエール・リヴィエール』河出文庫

へとへとな生業の帰り、えきなかで。名前を見、ハナが出そうになった。でも旧版が1995年にでてたのね。。。。性格上訳出は、現代思想の部分訳だけで留まると思っていた。

瑕疵。だな。

この方向だては。 システム=配置という把握をキーにまだグルグルするpoli。 〜過日のpoliより 上のような衝動に駆られ、これが迷走だったことに気付くきっかけはここにあった。 産業系博物館が1920年の道府県市立商品陳列所規程を契機に脱博物館化して以降…

しかし。それにしても

吸収のままとなるにせよ、奪還するにせよ、一個一個が保たれる第三の道というのは、、ないものだろうか。

犬塚康博2009「博物館外部システム論」『人文社会科学研究』第19号 千大大学院人文社会科学研究科

fischeさんの最新論文。大阪での講演から敷衍・拡張されたものか。システム=配置という把握をキーにまだグルグルするpoli。この脇に、、以下。

といいつつも。

やはり俎上にに上がる書籍が尽きることなし。以下。

先に示した学社連携だって、

そもそも学校教育のヘンなプライドが見え隠れする毒を含んでいるようにみえるし。結局、ダメ学童一派に急襲され籠城中の学校教育が社会教育に後詰を依頼しているわけだろ。 なんで学校がそんなエラソ〜なわけ?? みたいな。ま。これは学校教育に全く悉皆も信…

また。

資格を養成するために大学が現場に主体的に出張るなんて、特定の世代が耳にしたら、飯をブーって吹く椿事なんちゃうんかい。彼らの世代の多くはその某学校法人からでてしまっている追い出してあるから、えっつぁ、おっけ〜とか言ってる場合なのかね。 、、、…

なんでこんな話をするかというと。。

文化庁側がその競合の仲裁ともいえる意見を語ったというのである。ちゅうさい??某団体と某学校法人との。ね。でも、それってさ。ただの、、 安っぽい学社連携モドキでねえの?? その某学校法人が企業だとみれば、考古学関連の部署なんてどんだけ不採算な…

いつだったか

お互いの目下の問題を議論しあうことに意義があっただろうに、他市の窮状や、文化庁随一の法規通からの原因者負担への注意の喚起を耳にしているものの、?清談?へも発展せず、てめーの資格を制度化しようと妄想したり、報告書への無い物ねだりを際限なく繰り…

ともあれ。

羽入辰郎の著作は、ウェーバー周りが主著とされて今後も推移していくのだろうが、あれは各論ではないか。羽入本人の社会学観を示した著作=主著は本書である、と思うのだが。というか、もう早速東京大学教養学部系からの本書への討ち入りは始まってるのです…

ただ。。

恐るべきは、これが講義録であるということである。このネタを大学で、非常勤講師の講義で、やったというのである。まじかよ!!!うらやましい。なにが?て? 元とれてる感じが。

橋本努1994『自由の論法』創文社

この本の思想負荷性や、あとがきを目にしたとき、悪寒が走ったオカンが奔った、って誤変換があったらナイスだ、、うるさいぞ、、。橋本努は、その学問の作法の実験場として自らのHPを設け、大師匠であった折原浩を煽って書かせて、羽入を誘導しようと画策し…

ところで。

こういう視点で社会学を考えているモンに、この人自身は人間をどうみているのかなぁ、ダハハハァ〜(山田風味で)、なんて聞くのはだいぶ勇気がいる。かなり怖いぞ。フツーに質問すれば良いハナシじゃね〜のかよ!ミヤダイばっかりでないのね。こういう手合…

もそっと真面目な勧め方が

あるとすれば、社会科学の首取り武者、山形浩生によって訳出再版された、ミルグラム2008『服従の心理』河出書房新社をじかに読むと、ほんとへこむ。人様に。自分にも。でも本書から始めれば、ちったあ大丈夫かも。何がダイジョブだ!!チッ、気休めかよ!! …

羽入辰郎2009『支配と服従の社会学』ミネルヴァ書房

伊集院光は、相変わらす"汚いメーテル"と同乗し妄想特急を走らせてるらしいが、羽入辰郎は、キッついメーテル(奥さん)と因果鉄道に乗り込み、古びた社会学を"駆け抜け"ていく。 、、何言ってんだか いやあ、だから社会学者っつ〜か、根本敬の著作と並べてp…

今回の時点においても

マスコミ=情報媒体としての役割を果たしたのは、便乗する企業、と新聞記者に目された京浜電鉄のほうであったといえる。そのキーとなるものが、本文中にも登場する『京浜遊覧案内』という刊行物である。URLを俟つまでもなく、これは明らかに京浜電鉄のそれで…

しかし。

新聞記者とかいう野暮ったい豚児、もとい優等生は、そうはみない。やはりそういう固定した像でフィルタリングし背景に追いやってしまうのである。しょっぱなからこんなだったから、もしかしたら研究者自身の側からその像に満足してしまい、それこそ、いつだ…