2010-08-13から1日間の記事一覧

そういえば

hazumaにとって、物自体というのも、変化するものなんだね。てっきりヒトがカッテに物自体はこぉだぁぁとかあぁだぁぁって、絶えず蒟蒻問答して蒟蒻ならぬ粘土細工して絶えず形が変質する"物自体のツモリな"仮象だけが"語られ"、ご本尊=物自体はといえば、…

東の否定神学。

というか、hazuma名義で曰ているときの否定神学の語用は、別にその表現が否定でなくても"神学"であるから不毛、と主張している感じ。 吉本隆明が"論争に強かった"のは、神学の側にあって党派性を叩くに終始しているからとかいったのは、呉智英でしたっけ。そ…

以下の"否定神学"

の語用は、あくまでデリダのそれを指す。どうもここで東の語用は、東独特のもののようにも後日思えていた。だから別個で。んで、poliは読み返そう、読み返そう (2010-09-01)

「否定神学への焦点が残されたままだ!!」

とする指摘があるが、そりゃそ〜だろ。そいつのほうは『有限責任会社abc』の後に急展開する話題なのだから。確かに言及はあるものの、もはやそこには絵葉書という導きの糸は消えてしまった状態で語られているし、2大家の視座をも包括しても足らないと東は捉…

デリダほか2005『テレビのエコーグラフィー』NTT出版

ということになろう。ちなみに最近の日考協と某連合王国のウサンクサ団体のドンパチに際しては、この中のアーカイブにまつわるetc.が示唆的な感じがする。 感じがすると思っただけだって。

Derrida,Jacques 1998”Archive Fever”,Univ of Chicago Pr

絵葉書で宙吊り〜宙吊り〜言われている2大家についてのデリダの読みは、やはり上掲の2著でひとまずの着地をしたのではないだろうか。 先のラカン=ジジェクという、"東手製の"補助線を引く直前がまさにこの後者に触れている部分であり、ここでは『アルシー…

デリダ2009『精神について』平凡社ライブラリー

一応ああいうタイトルであるし、

全編にわたって郵便〜, 誤配〜, とまあ譫ごとのように唱えて苦しソ〜なわけだが、結局、『有限責任会社abc』の絵解きに移って、ようやく終局ギリギリに論旨が救済され閉じる。本書はそもそもそんな構造をしたテキストである。

東浩紀1998『存在論的、郵便的』新潮社

浅井田陰とか空桶谷弁人とか、そんなもん身に纏わないほうが、東, デリダそれぞれ主張を明快に分けつつ論旨を展開しやすかったのではないか。 首取り武者もクラインの壷で叩かれずにすんだかもしれないし、 「デリダは、中途半端ではなく、ちゃんと数学基礎…

デリダ2005『名を救う』未来社

これにも明言もないわけだ。 ちなみに。著者様がご執心の『絵葉書』が1980年に上梓、その固執を救った『abc』が1990年、上掲書が1992、つづいて1993に上掲書との否定神学三部作と目される『コーラ』と『パッション』。時系列に置くと、そんな位置関係となる。

でも。

意識を向けてもらいたいのは、こういう来歴・環境に育まれた哲学徒によるテクストのたった一枚のカード=絵葉書のみに本書はあまりにも翻弄されすぎではないか、といいたいからだ。 東自身があとがきで表明する袋小路や、迂回というか難渋ばかりを引き起こす…

ま〜、、確かに。

この絵葉書という道具立てがデリダ自身のお気に入りであったことは、その後訳出された、、、

こういうところは、

かつてテル・ケルに属していたデリダのもう一つの貌といえないだろうか。 テル・ケルが意識したであろうウリポ工房のイタロ・カルヴィーノやジョルジュ・ペレック、特定のグル―プに属していたかは知らないが、ミシェル・ビュトールもテキストを編むために、…

デリダほか2008『言葉を撮る』青土社

の映像部分からも伺うことができるが、彼がきってきたカードはこれだけではないし、上掲書近くに上梓された『パピエ・マシン』にても、あれかこれかとカードをきっているではないか。

ちなみに。。

さらに『アーカイブ酔い』に関していうと、その思索の成果を試す彼の言説を活写しているのが、度々引き合いに出す、スティグレールとの語らい、、