濱田青陵1922「第五編 後論 第一章 考古学的出版 八三 出版の義務」『通論考古学』(2004.雄山閣)

 いずれも戦前のメッセージである。彼らは、日本考古学の学問としての草創期を経、半ばに至ったところをいた。ちなみに藤森の言にあるH博士は濱田のことである。いわば濱田の作ったこの学問を受けその限界を衝いている、といえる。
 両者からは、学問が拙いなら、発掘、ひいては資料収集でさえ意味が無い、というのである。濱田は京都大学考古学研究室を開所した日本考古学の師である。藤森はこの弟子の盲目的な追従、あるいはみづからの師、森本六爾に導かれた東京考古学会からもその芽を見出し、危惧を表明したのである。学問の作法(=調査方法・研究法)ばかりで、その学問の目的を表明できない、そんな学問あるのか、というのだ。
但しこうした表明に至ったのは、高校までの恩師である三澤勝衛に『職人図会』を携え大喝されることなしにはなかった。


「職人の考古学」と「趣味の考古学」を止揚できなかった末路だね。
one nestさんがそうつぶやく状況は、戦前から既に指摘されていた、というべきか。