Interactive Miss-Communicationに煩悶する松本人志


 自らがメッセージに込めた意図から逸して伝わってしまった発信者が、その無理解に悶絶している姿がよく現れている。


思うてる以上に伝わりにくいもんなんすよ、お笑いて
(映像中の松本人志自身のことば)
 お笑いだけがこのリスクを背負っているわけではなく、メッセージをやり取りする関係を結んでいるその接点をもつものであればどれもでそうであろう。
 ただ、お笑いは、その落差の出来から更に笑いが派生する、という相乗効果を得ている点でプラスなのだろう。(て、言うてる、このテクストはち〜ともおもろない)
 他の職とて、この落差がなぜ発生するのかということも一つの焦点として当てる価値があると少なくとも発想することも出来よう。
 と、これをpoliは、今それを博物館学におけるInteractive Miss-Communicationに向かって言っている。
 果たして、そこのところの議論もないままに、巧みにフィルタリングしさえすれば、よいのか。来館者はよいであろうが、発信する展示企画者はそのフィルタリングの内と外を知っている以上、済まされないだろう。来館者とともに楽しむ面だけが、学芸員という職(しき)ではない。それは彼らの背中をみていただけのpoliでも分かったことである。
 おそらくこの落差への注視は、上のフィルタリングの一次において出来した隘路を幾分広く調整する、二次のフィルタリングに際しての、ひとつのControllerではないだろうか。いいかえると、来館者自身が持っているフィルタリングと、発信者のそれとの不整合の衝突の事後に、摺り合わせの作業があるとすれば、その指標となる。
 即せば、〝長身である〟という受信者の(フィルタリングした)セカイを認知した事後に、発信者側はその次に何を投げ返せぇいうんか?ということである。
 、、摺り合わせという局面を発想してみて、また過日のウォルツァーのツボの苦悶を思い出したりもする。