東京某所・Mikky-D内+自宅・2F

 月曜日に拝聴した内容の濃さに、若干こう、自家中毒。である。過日鬼の城さんとのコメントで話題に上らした〝ちょっと昔〟の展示の話である。


 共同幻想というと、実は昨日、fischeさんが、昭和30年代の展示への疑義について、集客を考慮する余り多数の〝懐かしさ〟にフィルタリングされ、少数の〝懐かしさ〟を捨て、置き去りにしているところに疑義の本質がありやしないか。多数が〝懐かし〟けりゃよいのか。という話をされていました
【引用者略】
 世代や地域が異なっていても、〝懐かしい〟に吸収されてしまうこの共同幻想。どうしましょう。集客にこれを撒き餌として、たまには、イチャモンを付けられるように多数ではなく、毎回捨ててきた少数の方にフィルタリングを掛けてみるというのも一つの策ではないか、と思いながら拝聴していました。イチャモンを付けられる、というのもキャッチボールが明解に成立したことを意味するわけですから。
(2007-08-25のpoliのコメント2投目より)
フィルタリングの原義としては、『自由を考える』(2003 NHKブックス)に定義づけがなされている。

フィルタリングというのは、サイトに応じた得点を配分しておいて、ユーザが要求するような特定の点数のサイトだけを配信するシステムです。フィルタリングにおいては、人は、排除されているという意識をもたない。むしろ、自分は許容されているという意識になってしまう。したがって、そこに権力が作動しているという自覚が起こりえない権力です。
(『自由を考える』p.164 ll.1-5)
 で。こう定義する大澤真幸の例示は、以下のようなものである。

親がフィルタリングをして、子供に望ましいサイトだけを見せるなんて場合もあるでしょう。こういうときにその子供は自分が何らかの意味で自由を侵されてるとはまったく感じずに、配信されているサイトを、自然の環境として受け入れてしまうわけです。つまり排除されていることの意識をもたないかもしれない。とはいえ、こうした場合であれば、子供に対して、「あなたの自覚していないところで、すでに排除が始まっている」、ということもできる。
(『自由を考える』p.164 ll.9-13 太字強調は引用者)
 即していえば、学芸員が企画の過程で、懐かしい、と多数が思わせる要素だけを見せることで、〝懐かしいもの〟として受け入れさせてしまう。と、こういう作為を指している。fischeさんのブログにあるPICSというのは、このフィルタリングの一型式を指す。
 で。それら諸々の元ネタは、これである。