今道友信1990『エコエティカ 生圏倫理学入門』講談社学術文庫

 別府昭郎さんが教育学の講義で紹介されていた。ま。これも10数年ものの積ん読である。う〜むそこから想起かよ。まいいや。
 本書の柱のひとつを担っている技術連関がそれである。まずは序文より。


科学技術は手段としての性格を維持したまま、それを超えて、一九六〇年ごろからは、ひとつの厖大な環境になってきました。これを私は「技術連関」と呼びますが、これが自然と並んで人間の新しい環境として定着します。この事実は、自然だけが環境であった時代に成立した行為規範としての倫理とは異なった倫理を予想させます。たとえば、語るという日常的な行為において、自然空間における相手としての隣人が至近距離にいる他人ですが、技術連関においては、電話を介して、海千山千の外国の市民が隣人です。したがって、不注意に番号や時差を間違えると、遠い国の見も知らぬ人を夜半に呼び醒ますことにもなります。このことは「正確性」を徳として要求するとともに、倫理の対象が、特定多数の可視的隣人から、不特定多数の不可視的未知の隣人に拡大したことにより、対面倫理の限界の越えて、共時的人類全体に及ぶことを意味します。
『エコエティカ』pp.5-6 ll.13-17, ll.1-5より。強調太字は引用者
じ、人類全体。ね。いいすぎだろ。それは、ま。
 1990年(この思考は1970年前後の著者たちのそれであろうが)って、まだパソコン通信の時代だあね。この一年後かそこいらで筒井康隆が、パソコン通信でユーザと意見交換しながらストーリーを決めていった『朝のガスパール』の新聞連載があったと記憶する。しかしそれより前にしてこの捉え方である。
 隣人=感知しうる他者との送受の構図にあって、不可視的隣人の参入によって、可視と隣人との一対一対応が崩れたということか。この裂け目に新たなハビトゥスが注入される。のだろうか。また本文中にはこうも示されている。

最近では、うどんでもコーヒーでも自動販売機が街角にできていますから、夜中に自動車で疲れて通っても、店だったら閉まっているとか、人がいれば不機嫌な顔をするというような時間でも、自分で金を入れてボタンを押せば、なんでも出てくるというような便利さがあります。
 そういうことを考えると便利なようですが、会話のない部品との応待が行なわれているというのは、とりもなおさず、われわれが記号を介してものと付き合うところのものに化しつつある、と考えてみなければならない事態だと思います。これが現代社会というものを技術連関と性格付けたときに出てくる二番目の特色です。
『エコエティカ』pp.134-135 ll.13-15, ll.1-5より。強調太字は引用者
 今はコンビニがあるだろが!!というつっこみも。ま。しかしそのマニュアル化した接客は、むしろこの指摘を補強してやいないだろうか。このように著者はヒトがモノ化=非人間化していくと見、それに対抗すべく倫理学として思考出来ることを模索し、目的ありきで手段を選択する行動様式から、技術連関のもとにある現代のそれは、手段の確認を経て、目的が絞り込み行為を決定する形に転倒された、と捉えた。現代の行為の論理的構造と呼称するこの行動様式は、また、個人が決定の主体ではなく、個人が手段を選定すべきプロキシとして依頼されるかのように布置している、政府や会社であるという。だから責任というものが把握し難い構造=倫理的主体の複数化である、と明言するのである。
 繰り返すが、これは2006年とか2007年とかの記述ではなく、1970年代を主体としたそれである。

ジャン=リュック・ナンシーかよ!!

 違うのは、この媒介物を、ヒトの外に措定するのが今道、ヒトの裡に胚胎するのがナンシーとでも言おうか。