ピエール・ブルデューほか1990『ピエール・ブルデュー 超領域の人間学』藤原書店

 いやあ、こんなところで、〝和泉の積ん読〟が日の目をみるとは。あ、コッチの話で。何年前の話だ。生協はあるのか?まだ。
 ま。ともあれ。
 ここでは、ブルデューの、廣松渉今村仁司との対談に注目する。


 ハビトゥスの概念を通して私が記述したいと思っているもの、それは身体と化した歴史としてのハビトゥスを通して、いわば歴史が歴史それ自身とコミニュケートするのだという考えです。身体と化した歴史が、真の存在論的共犯関係のなかで、物象化した歴史、モノ化した歴史とコミュニケートするのです。
 そして、少なくとも西洋の諸言語においては、ごく普通の言い方として、個人と社会とのあいだに伝統的な対立関係をうちたてられてきましたが、これは社会世界を現実的に認識するうえで大きな障害の一つになっているのではないでしょうか。なぜならこうした対立関係は、社会がじつは二つの側面において存在しているのだという事実を見えなくしてしまうからです。すなわち、一方には制度や図表、書物などの形で存在するモノ化した社会であり、他方にはハビトゥスという形で存在する身体化された社会がある、という二面性ですね。
ピエール・ブルデュー 超領域の人間学』pp.177下-178上 ll.20-21, ll.1-15より。強調太字は引用者
 彼自身は、このハビトゥスを、媒介物として見ないことを強調している。相互作用をアテにしていると誤解されたくないからだということがこの直後の談話からハッキリしている。しかし。poliが太字強調した部分などからは、やっぱり媒介物でねえの、と思う。
 で。この思考から想起するものがあったまたかよっっ