、、う〜みゅ、また脱線だ。もとに戻して。

 ブルデューハビトゥス、今道の技術連関、ヒトに媒介するもののこの二つの像は、過日に示したメンガーに叩かれている独断論もない交ぜになっているシロモノであろう。それこそ、そういうものをも仕分けるべく、二者が分け入っているとみることもできる。
 poliがこの二つの思索にみているのは、なにやらこう、ヒトが受動的に遵守しているプロセスである。視て視えぬふりをしているのか、ホントに視えていないのか。実は、ハビトゥスブルデューをまた読もうとしたのは、先日の神大行にて示された、〝サービス無き博物館の教育なき学芸員〟を受容するプロセスの不明瞭さを、その後のfischeさんと話題となったからである。あの推移は、博物館法などの法規の推移から看取されるものであり、実は、拘束力は案外強いものではない。博物館法下の条件を満たした登録博物館ならともかくも、博物館相当施設と呼ばれるのが日本の博物館の大勢ともいうこの状況からも明らかである。しかし確たる経営方針を自決するのが面倒なのか、どうやらこれら諸法規に沿った方針を遵守する姿勢をとっているからこそ、上のような枠組みを指摘された状況が培われた、わけである。この受動的な動きが何なのか、というのが、ここでのpoliの問いである。視て視ぬふりしてんでね〜の〜みたいな。(ああ、不遜だ)そんなことを思っていると、どうも、ハビトゥスというのが、ガルブレイスのいう、〝制度的真実〟にも見えてくる。うおっ、また脱線しそうだ。例示の蛇口はこのくらいで締めておかないと。
 ともあれ。
 多数が意を飲み込めなくとも意を解する少数が居ればエエ、という思い上がりを感じる、自生的秩序だの哲人国家を借景するなんぞ、まっぴらであるし、またマルチチュードとかいう、永久機関並みの〝マジ無理〟なユートピア論などよく本気で信じるモンがおるな、と近頃poliは辟易である。そんなもん、全体主義だの、動員の思考だのの大義名分にヨコからかっ攫われる危険が横溢しとるんちゃうんかい!!この期に及んで、シュミットとフロムの合わせ鏡がまた出勤せなアカンいうんかい!!そな感じである。