相沢忠洋1973『「岩宿」の発見』講談社文庫


 五月のこいのぼりが姿を消すと、十七、十八の両日は、浅草寺の境内の三社さまの夏祭りであった。
 はじめてのこづかいとして「つまらない物を買わないで貯金するんだよ」と、講釈つきで十銭玉ひとつをもらった。その十銭をふところに、浅草の観音様へ遊びに出かけた。六区の映画館街に行く途中の道ばたには、いろいろの露店が並び、色とりどりの売り声やしぐさで客を引いていた。まるい円陣に客を集めたガマの油売りも出ていた。その一軒一軒見て歩くだけで、半日は十分おもしろくすごせてしまうのであった。
 その露店を見て歩いているうちに五重塔の前に出た。その前には、二、三人の人が立ったりしゃがんだりして品物を手に取って見ていた。それは骨董品を並べて売っている店で、たくさんの種々雑多な物を並べた古道具の中に、六十近いゴマシオ頭のおやじさんが坐って、キセルでタバコをすいながら、だまって客の品物をいじる様子を見ていた。
 なんの気なしにそこをのぞくと、石のやじりがボールの板に十個つけられたものと、三個ほどの分銅形をした石斧が並んでいるのが目に入った。【引用者略】
 ながめているうちに、つい生活の変化と仕事の忙しさから忘れていた鎌倉でのことや、桐生の雷電山でひろったやじりのことなどが思い出され、なつかしくなってきた。
 しばらくながめてから、そのおやじさんに、
「これいくら」
と聞くと、やじりの方は五十銭、石の斧は二十銭だといって、またキセルに口をくわえて、うさんくさそうに横目でわたしを見ていた。
 私はだまった手にとったり、おいたりして、ながめつづけていた。
 なんとかしてほしい。しかし、ふところに十銭だけしかない。このことを頭のなかでくりかえしながらながめていた。
 どれほどの時が流れたかわからなかったが、急におやじさんはいった。
「その斧がほしいのかい」
「う、うん」
「それは二十銭だよ。いくらもっているんだね」
私はちょっととまどった。
「十銭だ」
「十銭じゃしょうがねえなあ」
と、おやじさんはまたしばらくだまっていた。
しばらくすると立ちあがってきて、
「これでもよかったらもっていきな、やるよ。遅くなるとだんなにおこられるぞ、もう店をしまうから。天気ならばいつでもでているからまた休みの日にでも来な」
 といって、石斧を手に渡してくれた。このときのうれしかったこと!いまでも忘れられないことの一つである。
 石斧をふところに、意気揚々と、いい気持ちになって店に帰ってきた。
 夕食後、おかみさんが、
「今日どこへ遊びにいってきた?」
と聞くのでまず今日の古道具屋のことを話し、だいじにポケットに入れてきた石斧をみせると、とたんに、
「だからつまらないものを買ってこないで貯金しろといったのに」
と、おこられてしまった。
(本書p.50 ll.4-18, p.51, p.52- ll.1-15)
 その後、学校で見せびらかしていると、学校の先生に帝室博物館の存在を教えられ、その帝室博物館で、守衛を勤める数野さんと出会う。彼が住んでいるのも浅草である。そんな彼からもらった図録に記された遺跡のうち、小豆沢遺跡を実際に足を運び、地元の人に話を聞きながら辿り着き、その次にきたときには、畑の一角を掘って実際の貝層を実見するのである。
 このように相沢が両者を「またがる」ことを可能にしたのは、両者が共存する東京という環境ということが、まずあるのだろう。相沢の暮らしのなかで、享受する情報が断絶していないのである。赤松自身、主著『民俗学』(復刻版・明石書店)も自身の民俗学の危機感としてあげていたものに、中央と地方の情報の傾斜というのがあった。帝室博物館へいった帰りに、神田の古本屋をのぞいた、とも回顧する。彼のこの経験は、奉公に入った浅草というその場所であるからこそ、情報の凝集を享受し得ているのだということをよく表している。