安渓遊地・宮本常一2008『調査されるという迷惑』みずのわ出版


 日本民俗学の父はいうまでもなく柳田國男であるが、その柳田に民俗学に生きることを決意させたのは、南方熊楠その人だった。アカデミズムを遠く離れて、好事家と士大夫と文士を兼ね備えたごときリテラリイなる英国知識人の一類型に自分を擬していた熊楠は、フォークロアを「〜学」と訳すことには反対だったという。彼にとってフォークロアとは、江戸文人の随筆と奇談を持ち、より検討しあう集い(「連」)のような、けっして形式化せずに趣味を深め等身大の世界認識を拡大していく知的ネットワークだったのだ。
 だが「学」と名付けた柳田にしても、客観的な社会科学などは、はなから目指してはいなかった。新体詩を書く明治官僚として出発した彼にとって、一方では江戸以来の在郷インテリゲンティアの記録への情熱を近代的知の圧政から救出し避難させるアジール的ネットワークであり、他方でそこに活写された「近代化」ーー日本の四辺寸土がその生活ディテールのひとつひとつから変容しつつある様を東洋の知識人の知で正しく認識し、天下国家を救い泰平を開く「新国学」ムーブメントだった。
 だがこのふたつの側面をつなぐメヂィアが、明治の国家エリート特有の知的エリートを蔵し、絵はがきの通達を全国に飛ばし、みずからも赤ゲットーの人力車で村々を走り抜けていった柳田の頭脳と身体ひとつのみであったことに不幸を兆す。
 柳田が昭和三七年に没し、ムーブメント・センター民俗学研究所が解散され民俗学界が東京教育大を頂点とするアカデミズムに組み込まれるやいなや、知の民衆運動としての誇りといかがわしさと可能性は急速に失われてゆく。
(浅羽通明1988『ニセ学生マニュアル』徳間書店pp.293-294 ll.2-14, ll.1-5。太字強調は引用者)
 この元ネタは、これを著した大月隆寛のそれだ。大学時代、実習の移動中、ひとが読書しているのを目聡くみつけ、「悪い本だ。それは」と断定調でのたもうたのが、以前登場した両天秤氏であった。一応御教示いただく側にいたこの御仁は平素、気分屋として知られていたし、また学部生は所詮犬猫だったようだし発していたディベート好きな非生産的な臭気がこのうえなく不快であったpoliは、へぇ〜、ほぉ〜、そうなんすかぁ〜
と、逃げたような気がする。いまだに当時の彼の真意はサッパなのであるが、もしかしたら民俗学者たちの危機感をこのまま日本考古学にスライドされても困る、とでも思ったのであろうか。
 本書は、タイトルのとおり、調査地被害についての宮本常一のテクストを起点に、安渓遊地がそれ自体を追跡調査するとともに聞き取りを行なったものである。

泉靖一氏は、一九四九年【引用者略】の北海道調査中、次のように叱られ「雷光に打たれたよりも強い衝撃をうけ、ただあやまって調査をせずに帰ってきた」。これが一つのきっかけとなって、泉氏は生身の人間を研究対象とするのをやめて、南米の考古学に転ずるのである。
「おめたちは、カラフト・アイヌがどんな苦労をしているか、どんな貧乏をしているかしるめえ。それにのこのここんなところまで出掛けてきて、おれたちの恥をさらすきか?それともおれたちをだしにして金をもうけるきか、博士さまになるきか?」(泉 一九六九【引用者註 『フィールド・ワークの記録――文化人類学の実践』講談社現代新書】)
(「第二章 される側の声――聞き書き・調査地被害」註[1]『調査されるという迷惑』pp.50-51より)
 、というわけで、調査地から撃退された泉靖一が逃げ込んだ先は。。。考古学であった。遺跡であった。遺跡も遺構も遺物も「でていきやがれ!!」と発する口はないのだ。
ま。もっとも。
 泉は、そんな風に多寡を括っていたとは思えないし、現に彼は出土資料を研究のため国外から持ち出そうとしたとき、現地の人々にわが国なんぞよりもこっぴどく阻止されているのだから。(泉靖一1971「コトシュ発掘後日譚」『泉靖一著作集』4 読売新聞社
 しかしそれはヒトが代行した幸運に見舞われたに過ぎない。国史跡指定でさえ、万全なものでないことは、先に示した木村衡氏の著作集に所収された拙著部分で例示したことがある。
で。
 今年は、ダイコン山に向かおうにも、風雨に腰砕けてしまったが、前年の総会に訪れた日のにっきにて、こう書いた。

いつもとばっちりを受けるのは、考古資料である、というお話。
(2007-05-27のにっきより)
 つい先日例示した"公然たる裏技"を眼前で指示する言を放った者がいて、愕然とした。しかも同日国史跡にてタヌいた挙句のこれである、なんともはや、呆れた醜態であった。
 彼らは、要するに

遺跡や遺構を守りたいのではなくて、遺物だけ、あるいは遺物を掘りだす自身の権益を守りたい。

 ただそれだけである。モノに目が眩み、ヒトがみえなくなる。poliが小5でお師さんに会い、その背からみたのは、冒頭引用部で太字強調した、"つどい"の姿であって、大学のそれというのは、まったく別のモノであり、この目が眩んだそれだったのだ、と。大学を出てから気づいたわけだ。って、遅せ〜わ。