ともあれ、、

 赤松の二つの問題意識とともに、相沢から照射されるのは、著者や赤松が2分する「知的」/非「知的」の振り子と相同して、中央と地方とのあいだで、人的関係も含めた間接的な情報の非対称性が発生している状況下に、博物館が出来している、という把握である。
あるいは。
ともすれば閉鎖系に戻ろうとする"博物館"自体がひらこうと渇望する理由がここにある。多寡だとか、赤松がみたような尊卑だとかいった表現が暗に示しているように、来館者諸氏の情報の保有形態がそれぞれ異なっている。相沢しかり、本評者自身によって以前見い出された銀河鉄道の夜』にて標本をみる各々や、橋本裕之のみたお面の前の来館者たち、と明らかにそこに持ち寄っている「ブツ」がまちまちなのである。そんな彼らが博物館に=眼前で一同に会している。すなわち、そんな彼らから、むしろ刺激を与えようとする側が、逆に刺激を受けるべくひらこうと欲している。そんな心理が働いていやしないだろうか。とすれば、例えば以前から度々紹介している『博物館は生きている』のなかにいた、石を収集する人とは、明らかに矢印が異なってくる。