D.ゲンダーヌ, 田中了1978『ゲンダーヌ』徳間書店

 コメントに示したとおり、開発経済学によって、否応なしに意識されてきたグローバリズムは、万能とまではいかないことが明らかである。poliにとっての似非坊主の勘ぐりといったところか。そして目下の程度の勘ぐりでは、こういう事態のおかしさも感知しがたくなるのは、なおさらではないだろうか。


若い男はオタスに残っていない。源太郎が埋葬準備をした。マーリアを自分の手で埋めるー予想もしなかった出来ごとである。泣きながら源太郎は土を掘った。イリーナに話しかけている男がいる。オタス丸でいっしょに渡ってきたシシャである。「オロッコは天葬ときいているが、なぜ埋葬にするのか、写真でみるのとちがうではないか」といった意味のことを訊いている。人が死んで悲しんでいるときに、天葬がどうの、写真がどうのと根ほり葉ほり訊く無神経さに源太郎は無性に腹をたてた。
 ウィルタの葬法は本来土葬である。冬の凍てついた土を掘るのは容易なことではない。コンクリートにツルハシを立てるようなものである。土が掘れないから冬期間は樹上に仮葬し、春に埋葬する。たまたま、旅行者や学者がそれを見てオロッコの葬法があたかも天葬であるかのように宣伝したり記録する。この男はそれを真にうけて町でマーリアの死を聞きつけ、もの好きにもわざわざ天葬とやらの仕掛けを見に来たものであろうか。
(『ゲンダーヌ』 pp.120-121 ll.12-18, ll.1-4)
 オタスとは、ここの記述にあるように、北の大地の五族協和な産物である。件の勘ぐりの最たるものであろう。それを生成した民族の研究者の具現が文中のシシャ=日本人である。この実話は、研究者のほうが係わりを求めている。確かに日本考古学は、無縁と誤認するような態度を過去に表明したことがある。しかし遺跡は、各々が生産活動をする土地のしたから発見される。先日の大森貝塚の展示でも紹介されていたと思うが、モースは、賃貸契約をして大森貝塚を掘った。そして浜田耕作は、同様に契約を結んで国府遺跡を掘ったのではなかったか。
 戦後を経て今日にあっても、大規模発掘が展開される場合、機材を置く場所を賃貸契約するなどという事態も出来することもあろう。考古学をするというのは、ましてや遺跡と直面するというのは、契約という社会との接触を余儀なくされる。日本も毛唐もありやしないはずなのだが。そんな可能世界モドキ=セカイを俯瞰するに留まるなら、実証主義という虎のケツノ穴に逃げ込んだ、と謗られようが、地に足つけて思考したい。少なくともかような俯瞰では、上のシシャの作法を克服できるとは到底思えない。