では、poliは、どうなのさ。

 poliやKOneさんは、この眼前の現象を実測に観ているわけだし、poli個人としては、写像という説明モデルに帰着する一般化を示した直後から、それが個々で生成されている言語ゲーム上のルールのひとつに過ぎず、突き動かした要素を妄想する。
 その他のルールひとつひとつへも注視に移行し始めた、バクハツ頭先生の『論考』から『哲学探究』への途を想起する。写像モデルによって、"ツルツルのっぺり"となってしまった諸々の現象のカタマリたちの散布域を、言語ゲームにみえる、個々で生成されているルールへの注視という(前期の写像モデルからみて)脱一般化することで、また遺失したものを拾得しはじめていくのである。以下のような感じで。
 『論理哲学論考』によってまとめたものの、その直後から、

それに描いた写像なんてぇなもんは、単に我々が特定の予定調和に置きがっているだけでねぇ〜の??

と考えはじめる。


 我々は破壊と変化を、要素の分離と組み換えとして描写したがる。【中略】その観念の原型がどのような現象なのか、どのような単純で日常茶飯事の事例なのかをはっきりさせることほど重要なことはないのである。【中略】さて、この問いに対しては我々の中の何かが反抗する。何故ならこのように問うことによって理想を危険に晒しているようにみえるからである。だが我々がこのように問うのは、だた理想というものをそれが本来属する場所に置こうとすることにすぎないのだ。というのも理想とは、我々が現実とそれと比較するぞう、事態がどうなっているかを我々がそれを使って描く象であるはずだからである。それに従って我々が現実を反証する像であってはいけないのだ。
(バクハツ頭先生の1937年2月8日の日記 『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』講談社 2005 p.114-115 ll.16-19, ll.1-9)
とまあ、上のような内奥を含む写像観を指して、この日記では「崇高な把握」といっているのは、ミョーにこう、自虐的な響きである。
で。

「崇高な把握」は具体的な事例から立ち去るよう私に強いる。というのも私の言っていることは具体的事例かには当てはまらないからだ。そして私は霊妙な領域へと赴き、本来の記号について、存在するはずの規則について(どこに、どのように存在するのかは言えないにもかかわらず)語るのだ。そして「ツルツルすべる氷の上へと」入り込むのである。
(同上 p.115 ll.14-17)
 過日別件で、poliは自分で作った虎の穴に入る前野大先生の気分だ、としたが、彼のほうは自分のあらわした『論理哲学論考』に=前期研究に=写像モデルに閉め出され、その外表面=ツルツルすべる氷の上に追いやられてしまったのである。

ザラザラとした大地に戻れ!!

と、ヴィトゲンシュタイン失地回復がここから始まるのである。『哲学探究』へ向かう思索の出来である。
 あの熟考の究極体たるヴィトゲンシュタインと同じなどとは思わないが、実測の下にあるときの我々と遺物の間では、この予定調和とその拒否反応が繰り返される。実測そのものの意義こそ、先に吐露したもどかしい思いそのもの、むしろこれなんでね〜の?なんて思ったりするわけだ。