J・デリダ+B・スティグレール2005『テレビのエコーグラフィー』NTT出版

 デリダのほうは、誰もが前期後期に分断しているとみなしている、自らの認識論を〝双方とも〟網羅してメディア論を跳梁する。
 また、本にっきの初っ端で示した著作において、デリダがナンシーを礼賛したときの視座に繋がってくる。これだけに留まらず、〝パルタージュ〟の言及の頻出も、ナンシーの問題意識との交錯を思わせる。
 そういったなかで、聞き手であるメディア論側のスティグレールが頻繁に引き対談の核に据えようと目論むのは、『マルクスの亡霊』で狂言回しを演じた〝記憶の政治学〟、〝選択性〟という概念である。どうやらこの選択というのも、経済学でいう選好や、高田明典が語った構造主義の構造と違って、制御可能か不可能かをそうそう簡単に測れないシロモノらしい。
 デリダは、これらを納本制度を例に考える。実際wikipediaを引いてもデリダが語っていると同じ問題に行きつくものらしい。納本を一辺倒に続けているうちに、その納本された書籍を収蔵するスペースが満杯になってしまった、ということである。この残すべきものを選択する決断に必然的に迫られる状況をさして、デリダは記憶の政治学が生起すると捉え、その政治たる身振りが選択として現れている、とする。
 収蔵庫に遺物が満杯になるという問題の渦中にて、〝遺棄〟したという事件や、文化庁の基準が提示されたというのは、曲がりなりにも記憶の政治学のひとつの形、とでもいおうか。
 しかし、先に触れたとおり、それは、制御可能か不可能かをそうそう簡単に測れないシロモノらしい。選択の俎上に乗っかっている〝術〟(本書では〝技術〟としている)と向かい合うとき、言語の問いが揺さぶってくる、というのだ。poliが日頃記しているアノ、言語の使用である。


この選択性の意識は単なる傍観的な批判や理論的な用心だけではすまされるものでは決してないでしょう。ここでまた道具化の問いに突き当たります。こうしたことのすべては、道具化と道具性の文化なしではあり得ないのです。しかしながら同時に言語の問いがここでわたしたちに警告します。技術が道具を意味しない地点があります。「言語作用(maitrise de la langue)」はただ単に客観性あるいは客体化を意味するのではありません。記憶のなかに客観化することも、客観化されることもできないなにかがあります。つねにすでに技術的なものないし道具的なものがあるともいえますし、それにもかかわらずあらゆる技術が道具化されるわけではないといえます。批判、批判の「主体」は、彼が扱うものについて純粋な客観的関係にあることはないでしょう。彼が言語を語ります。彼は言語を語らなければなりません、たとえばある言語をひとが語るときに、その者はその言語の観客の位置にはありません。言語の実践者なのです。日々の日常言語、政治言語、科学言語、あるいは詩的言語などの実践者です。
(pp.105-106 l.17, ll.1-9 太字強調は引用者)
 この十全でない選択に対して批判をものすのが思想であり、これを為さしめるのは言語でひとに語る立場である、とデリダはいう。
 従来経済学を通して語られてきて、ネグリらにマルチチュードの小道具として着飾られてきた市場やデモクラシーについては、

結局、デモクラシーの問いは、とりわけ市場の開放と公共空間との関係に関わります。どうすれば、公共空間をなにかに支配されることなく、可能な限り開けたままにできるのか。わたしとしては、支配するものは市場ではなくて、ある類の市場の商業的決定であるといいたいと思います。
(p.80 ll.9-11 太字強調は引用者)
 と、選択の縁語とも言える〝決定〟を強調することで、上の問題意識とリンクさせている。
 この数ヶ月、神大行の前後は特に、フィルタリングにしろ、CODEにしろ、それを実行する主体がいるわけだが、それは誰か?という問い、これがいみじくもデリダスティグレールがここで語らっている話題そのものであるといえる。そして、その決定を委ねられるべき主体への注視を反映したキーワードが思想以外で見当たるとすれば、これまた頻出している〝自己固有化〟であろう。これを再起動するのか脱却するのか。問いはさらに展開していく。ハァ〜、どうやってCODEの途に戻るんだっけっか??