小川徹太郎2006『越境と抵抗』新評論

 本書の読みを続行することを躊躇したのは、ある意味、読後、自身の言動が亀の手足のようになることをカッテに恐れたからである。
 本書の序盤に置かれた2章はそれくらい、験者を打ちのめすようなテーマである。験者の視座がいかに高踏的な態度を含んでいるかを突きつける。正に大月隆寛先行者たる小川の面目躍如である。
 座学の限界を突き詰め、安易な実践に釘を刺す。これが上のものした如何ともし難いクビキ。といえよう。
 ただ、この反対側にも問いが出来する。なぜ、そんな反感を持たれる態度を擦り込みのようにやってしまうのか。いみじくも小川も引いているイリイチ曰く〝学校化社会〟の具現。そう一言で言い得る向きもあろう。ではなぜ学校という装置が、導入され重宝されてきたのかと、問いの遡行もまた出来するのではないのか。
 ま。二窓など地元の人にこれをまんま説法するほどバカげた絵をないだろうが、せめて験者の裡には、これも自問されるべきではないか。そういうことである。
 我々は、カントが示したように、現象面が逃げ水のようなものであることをアタマでは理解したつもりではいるのだが、そんな存在は、何も現象面だけでなく、こういった擬制やルールやゲームの適用がなされ、ある難局が何らかの解決をみた直後からも出来してくるということも、実感してきたところではなかったか。
 ちなみに過日の複雑性の縮減への近年の理解に疑念を抱いたのは、poliにとってはこういう問いが昇華したものであったりする。
 poli自身、逃げ水を悉皆掬い取る桶などそもそもあるわけないと考えている。なにを導入し作動させたとて、あくまで効果のあるのは部分的である。不全の部分もまたある。
 このため、上のような無理解の問題というのは、互いの歩み寄りありき、験者が特に大股で歩み寄るよりほかに好転はないことに異存はない。ただ、それでもどこまでいっても全面解決するというものでもない。また新たな桶を持ってくるのか?それとも桶から掬い取ったものをいったん流すのか?選択に戻り、一方を選び、進む。
 カントから、さらに更に何やら込み入った選択をここに示したのは、上の小川の問いの難しさが、更にこの選択はおろか、それと前後して横たわって布置しているように映ったからである。個人が仕組みを体得するプロセスと、これを他者に伝えるというプロセス。すなわち、この二者に小川の問いが布置されている。だから困難を極めるのではないか。もっともpoliのように鈍重に同じ所を逡巡している者には、各個撃破で愚直にいく以外に途はないのだろう。