大庭健2006『善と悪』岩波新書

 早速、読んでおります。で。ハーマンの箇所。ですが。


 電気は、観察する人がどう判断しようと、それとは独立にライデン瓶の反応を引き起こす。しかし道徳的な特性が、出来事の因果連鎖に登場しうるとすれば、それはひとえに、その特性にかんする道徳判断がなされたから、である。因果的に作用しうるのは、ある道徳判断がなされたという事実である。道徳的な特性の因果的作用は、どこまで行っても、判断を経由するのであって、道徳的な特性そのものが、何かを引き起こすわけではない。したがって、道徳的な特性は、科学のばあいのように、〝観察を説明する〟という一点にかんして不可欠ではない。やはりそのことはみとめざるをえない。
(本書p.84 ll.6-8)
 poli自身は、だからこそ、第1考古学と第2考古学が併走するにしろ、頗行するにしろ、そのような構図を導入する時点で、一つの判断が導入されたとみる。そう、構図そのものは、何かを引き起こさない。契機を喚起を促すけども。
 ここで、たとえ、

それじゃ、非科学みたいじゃないか?

といわれても、poliは、

はぁ?だからなんだってんああ?


科学の建前(=観察)だけで他者にどう説明するつもりだよ?アア?

と聞き返したくもなる。すなわち、
観察だけでは、ただてめえでひとりごちているだけに過ぎない
、というひとつの焦燥となっている。
 poliがそんなかくも根拠なさソな自信をかますのか???
 、、そりゃ〜、受け売りでしょ

ぬへぇ、ば。ばれた。