マイケル・ウォルツァー1996『解釈としての社会批判』風行社

 とある現説待ちの間に、たまたま入ったBookOffにて本書を入手した。というか、こんなカタイしろものBookOffで売ったもんだよね。まあ、そんなん売る人のカッテだろけども。
 先日、南波次郎を介して、ヘンなため息をついたとき、列挙した名前にこのウォルツァーが。
 倫理学の論争としてまず名前の挙がるのが、poliがしばしば話題に出す、ハーバーマスルーマン、そしてロールズであろう。ウォルツァーは本書において、ハーバーマスロールズの二者のそれを哲学的対話と称し、これには共通する問題点が3つある、という。
 ひとつは、その対話によって社会的平等の是非を決する根拠を明らかにするはずが、予めそれぞれの裡にその根拠が想定されていること。
 ふたつめは、双方とも対象として捉えている現象面が均質な完全情報を想定していること、
 で。
 最後が、双方とも、対象を俯瞰する位置にたつために当事者=利害に関わる立場であることを放棄する態度で臨んでいること。である。



 この三つ目。
 いやいやいや、これを回避せぇなんて、無茶ぶりでねぇの?
 そもそも、これは指摘する側自身とて、ちっとやそっとで回避できる代物ではないだろう。
 現に、同じく大川が訳出を行なった、みすず書房のテッサ=モーリスの著作の問題にあっては、みすず書房サイドに遮られ、一見俯瞰の布置が保たれた観はあるも、それは本意ではなかったろうし、本意も何も、そのような出来事はあったかさえも、みすずの緘口令が功を奏して意識されずに現在にいたっているのかもしれない。作者の対応は、片側の当事者のHPにて明らかになったものの、訳者のそれは、未だ耳にすることはない。ま、別に訳者がこの見解に禿同!!なんて決めつけるのも尚早といえば尚早、という向きもあろうが。
 実は、環境経済学会においても、こういう困難さを指摘した人物がいて、あとにもさきにもこういう身も蓋もない指摘を行った者は見たことがない。某BBSの弾劾をくぐり抜けた意味で大カトーがあくがり出たかのような経済学者、岩田規久男である。


2年ほど前に,筆者が勤めている上智大学の同窓会が発行している雑誌の主催で、何人かの上智大学の教員が地球環境について座談会を開いたことがあった.筆者は経済学を代表してその座談会に出席したが,他の出席者は法学や語学などの経済学以外の社会科学や文学などの専攻する人々であった.そのとき,筆者は経済学の立場から経済的インセンティブ手段を用いて地球環境を保全するべきであることを強く主張したが,他の出席者たちは,それよりも環境教育やライフスタイルの変更などを主張してやまなかった.座談会の後で,弁当とビールが出されたが,筆者は酒を嗜まないのでビールは全く飲まなかった.しかしその他の出席者は弁当を食べ,ビールを何缶か空けた後,どの人も飲食が終わると,「それでは」といってビール缶をそのまま放置して退席してしまった.
岩田規久男1997「環境倫理主義批判」『環境倫理と市場経済』東洋経済新報社p.69 ll.14-19, p.70 ll.1-4 より)
 こういうところにウォルツァーが問題とした難しさが出来しているように思う。ヘンな話、憂慮のツボがそれぞれ違う。これをウォルツァーが複数性と称し、哲学的対話に三つの問題に通底するのは、その単数性を指向する態度に由来する、としているのである。そんな上の枠組みで対話を勧めるが為、そのまちまちなツボ=複数性が感知できない。

ムッキ〜!!

そんなことのようだ。と。ええ??そ〜かぁ??
 、、、ともあれ。
 三つ目の対応、すなわち俯瞰と当事者の間に敢えて立つことウォルツァー自身の提案は、この複数性を是とする彼の見解を表明ということになる。
 poliが、伊皿木さんの俯瞰の翼を台無しにするような発言をしたのも、こういう途をはじめからあきらめているような杞憂をまたまたもや覚えたからに他ならない。そう錯覚だと思う。第1考古学と第2考古学の二つの系を並列させる彼の視座は、前者のみを堅持する従来の立場に比べれば、むしろ複数性の射程と交錯しているといえる。(ただ、こっちの見立ては、錯覚ではなくやはり不適切な俯瞰へのクサである。)
 しかし。
 彼は資料を直に引見することを生業とする側の人間、すなわち当事者の側面をも有するのである。
 今の考古学界にて俯瞰か座視かの二者択一する=単一性を目指す態度など、その立場を台無しにしやしないかともなりかねない。これがpoliのよぎった杞憂の本質である。考古学という学問の敷居の低さ=専門と非専門の卑近さ=学際性が裏目に出ている一種の危うさとも映る。先天的にウォルツァーのいう2つの間に敢えて立つ学問、ということではないだろうか。それにしても〝学際的〟なるコトバは、良いことばかりでもないね。しんどそう。
 あ、ウォルツァー先生からpoliへ一言。

批判者は、激越な調子で批判し、妄想に取り憑かれ、独り善がりになりがちである。
(本書p.62 ll.13-14。強調は引用者。)




そうっすよね〜。ハァ〜。
 なんかこう。
 自分の用意した虎のケツの穴に入る前野の心境っすねぇ〜
なんだそりゃ