福田、林の上のそれは、

 本来政治へ向けられたものである。しかし。民科の糸冬も、内部における左傾の激化による自壊といわれていることからみても、純然たる研究者のセカイだの、社会とそれ以外だの、国民のニーズの内外だの関係なく、こういう陥穽に陥ることが過去にはなかったわけではない。そしてそのしょ〜もないループの原動力があるとすれば、自分はそんな失敗をする側ではない!というこの妙な根拠ない自信にあるのではないか。失敗に抗する手立てはどんどん明解化していっているのは、分かる。しかし。その営為に際して、意味が無い!とpoliが憤激を禁じ得ず、暴言を吐く(意味ないこたあないです。言い過ぎでした。でもpoliの瑕疵として記述は残しておきます。ああはずかしい。。)のは、ひとりひとりの裡に失敗のモトがある、とは結局考えないのか、という疑念が晴れないからである。
 柴谷篤弘の弟子だが弟分だか、とうそぶく御仁がガタガタ12年も抜かしているが、この手合いも、poliにしても、因子を胚胎していながら、その禍の外にいるかのように今のところは居られるのも、別にその陥穽に陥らない手立てをこうじているからでは断じてなく、単に自らの手でサイコロを振っていないからだけのこと、只の、ほんの些細な僥倖とは思えないのだろうか。