餅屋がちゃんと詳説してくださ〜る!

と思いきや、フラチな当方なんぞをリンクして、おしまい、とは、


ど〜いうこっちゃ!!
さに〜さん
、、、
ま。ともあれ。ふたたびその件について。
 2つの結び付きについて数学者はどう説明するのかを論じたのが、遠山本の第2章「「もの」と「働き」」であり、土器型式の様々な議論は、この説明作業と似た景色をみせてくれる。

(1) Gは元と称する要素の集合で, そのなかには結合φ(a,b)が定義されている。
(2) φ(a,e)=φ(e,a)=aを満たす単位元eがある
(3) aに対してφ(a,b)=φ(b,a)=bをみたす逆元bがある。
(4) 結合法則が成立する。
φ(φ(a,b),c)=φ(a,φ(b,c))
この一般的定義における結合φは, 前の例のように「働きを二度行なったもの」という意味をもっているとは限らないが具体的に現れる群はたいてい「働きの集まり」を意味するものと考えてよい。
(遠山啓1952『無限と連続』p.63 ll.6-16)
以上、数学上の群と呼称される対象たる4つの条件である。この引用に、この間のpoliのひとことに含まれたワードが。単位元。で。ある。
卑近な例は、九九の各々の段の、1がそれである。1×1 = 1×1 = 1, 1×2 = 2×1 = 2,
1×3 = 3×1 = 3, 1×4 = 4×1 = 4, 1×5 = 5×1 = 5, 1×6 = 6×1 = 6, 1×7 = 7×1 = 7, 1×8 = 8×1 = 8, 1×9 = 9×1 = 9
と、いった感じであるが、さらにこのような補足説明が。

数の1は1匹, 1本, 1人, 1個, ……などの無数のものから抽象して得られたものであって, はっきりと独立した個性をもち, 2, 3,
4, ……がなくても1は考えることはできる.しかし群の単位元eは群の他の要素から切り離すと単にeという文字としての意味しかもたない.なぜなら,
eは他のものと掛けてそれを変えないものとして規定してあるのだから, 他の要素の存在を前提し,
他のものと結合して初めてeの特徴が現れてくるからである.少し逆説的な言い方になるが.eの個性その社会性の内にひそんでいるわけである.このことはeのみではなく他の要素も同じであって,
各要素は群という社会から切り離されると単なる記号となってしまうし, 群という社会のなかにおいて初めてその個性を発揮することができるのである。
(上掲書, pp.63-64 ll.17-24, ll.1-8)
この説明に示された単位元という語用は、メルクマールのそれと遜色ないではないか。と一方的に断じ、メモを書き付けた、という次第。
 さらに群を構成する要素の"結び付き"の様態として、対称律・推移律・反射律の3つを挙げる。なお、先の条件(1)〜(4)がいずれか成立する場合、このうち対象律は、既に満たされていることとなる。aRbとこんな記号で表されているその律性は、Rという"お約束"に結ばれたa, bの二者ということであって、そのRというのは、それぞれの説明内容にほかならない。
 以下、こちらは2月8日現在のwikipediaの記述より。

家族的類似(かぞくてきるいじ、family resemblance)とは、言語哲学認知言語学上の概念で、語の意味を部分的な共通性によって結びついた集合体とみなす考え方。
WikiPedia"家族的類似"中の記述より。太字強調は引用者。)


ウィトゲンシュタインは、対象の同定は、推移的に行われうる、と主張した。これは、全体に渡る共通性は必要ではなく、部分的共通性の連鎖によって全体が結合されていればよい、という考えである。ABとBCがBを共有するがゆえに同一のものとしてグルーピングされたとする。このとき、BCとCDがCゆえに同様に同一のモノとみなされるとする。このとき、ABとCDは何かを共有しているわけではない。このような状況でも、この同一視の推移的な関係によって、ABとCDは、同じ対象(類)としてグルーピングされうる、そして、しばしば現にされている、とウィトゲンシュタインは考えた。(彼が例にあげているのは「ゲーム」である)
WikiPedia"本質主義"中の記述より。太字強調は引用者。)
 この辺で、ほ!これかというのが1つ。それから別箇でミョ〜な想起をもうひとつ。