それは、使用する側が、でしょう。


認識論も所詮は、似非坊主の悟り似たり、単なるペタンチックで、現実は、もっと俗世間にまみれたものだと思います。
「ペタンチックで」「俗世間にまみれ」ているのは、認識論または現実に接している者自身に帰するものであって、この言説は、認識論または現実ではないそういう裡なるものを擬人化し叩いているにすぎません。そして、これまた接しているひとりひとりでその表出が違う。そんな状況で、相同するにせよ、食い違うにせよ、了解できるレベルがあるとすれば、どこか?それが気になるからこそ、「似非坊主の悟り」の重畳が生成されるし、ヒトはそういう途方もないしょーもない営為を繰り返す