小杉康ほか2006『心と形の考古学 認知考古学の冒険』同成社

 これも21世紀COEの生成物である。ふるさと創成金みたいなもんか?何なんだこの制度は。
久しぶりのアチャラな考古学理論の本である。どうやら日本研究者によるマイズンミズンではないそうだ。でも、ごみの山で何が悪い!!!(8-17追記)『心の先史時代』(1998 青土社)のリアクションのテクスト化。しかしひどいな〜このまえがき。
あとのせサクサクが不発したこの感じ。
、どうしてくれるのか。
 「伝達具」「遮断具」、二者で対概念として対置し得ている、と思っているみたいだが、得てない。そもそも「遮断具」の"具"は、道具の"具"として語用ではなくて、部品としてのそれであって、その点では、「伝達具」の内部構造を分類した、そのうちの、作用部に属する下位概念に相当するものである。伝達具に接頭する伝達は、一次用途であるが、遮断具のそれである遮断は、二次以上の高次の間接的な用途に過ぎない。と、まあ、この始末である。
 そのうえ、コーヒーカップは口に運んで云々、というのなら、その後の杓子(レードル) とやらを口に運んだ瞬間に、即瓦解するため、第三の範疇を設ける。


ただの両天秤じゃね〜か。
ともあれ、分類のルール、というか階層が違うのだ。範疇は3つではない。操作部+伝達部+作用部の内部構造に基づけば、1つに帰属する。杓子のたぐいを加味するなら、上部下部の二階層の分類ということであるが、これはなかなかに強引な。
 poliは、かつて真光寺・広袴遺跡群のうち、日影山遺跡の撚糸文期の資料の分析を読んだことがある。このうち礫器の一種(小杉の呼称では扇形削器)を位置づけるにあたって、本書でも示されている通り、素材=製作コード、工具=製作コードの二つの系を想定している。
 が、今回のような形から入るというのは、不得手だったのか。少なくとも、かつての二つの系の明解さがうそのようだ。