ディアドラ・N・マクロスキー2002『ノーベル賞経済学者の大罪』筑摩書房

 原題は、『経済学者の悪徳/ブルジョアジーの美徳』とのこと。邦題のいわれは、俎上にあげる格好の題材とマクロスキーがみなしたのがノーベル賞受賞者であったから。で。本題にもどると。
 統計などで手続きの見える方法によって、資料操作が可能なデータ形態となっているものは、先験的なシナリオに乗っけて走らされるリスクにさらされている。マクロスキーはこの虚に分け入る徒を見いだす。その虚は、データの成す所見から理解できることを説明するプロセスにある。


標本の規模がきわめて巨大であれば、推定値の標本変動はゼロに近付く。そうすれば、すべての係数は有意になるだろう(帰無仮説の設定次第ではすべて非有意になろう)。そこで自問してみて下さい。何が重要な経済変数か?と。さあ、さあ、どうしたら重要な変数だと分かるのですか?本気で答えるのですよ。えっ、もうギブ・アップした?率直に言いましょう。「あなた方はまだわかっていない」のです。科学的重要性に関する疑問は、通常問う価値のある唯一の科学的な疑問であるが、標本の問題をうまく解決した手法だからといって、何が科学的に重要かという疑問に答えることができるわけではない。科学的重要性 (sience significance)は、標本問題(sampling problem)とは違う問題だからだ。
(上掲書 p.30 ll.8-15)
 これはコンピュータなどの計算能力の向上が挙げられ、それらが「統計的有意性は科学的重要性と同義であると思うようになり、したがって効果の大小を人間が評価するという科学的な研究作業の最後の段階を省略してもよいと考えるにいたった」と絵解きするのである。根井雅弘によって高いトーンで紹介された合理性の限界の別種の表出ともみえる。
但し。
 役立たずの「経済学者の統計的有意性」と違って、有用な「統計」自体も確かにある、ということはこの直後に強調している。そして、このおばさん(元おじさん)の恐ろしいのは、この先も続く。統計的有意性を斬っていたかと思えば、返す刀で理論の砦に立て籠った輩を黒板経済学者と糾弾するのである。そのときに用いている武器が、ファイアアーベントやファインマンである。
 では。どっちがええのや〜言う話となってこようが。眼前に起こっている現象そのものから離れる術として、統計や黒板を使うのはやめぇ。眼前からはじめよ。とのこと。重ねて言うが、マクロスキーは、この2つを手段は必要であると理解した上で、あくまでも片側への傾斜を叩いているのである。
 しかし統計学者は、そんな危惧を胚胎すること一切なしに突き進んでいたんだっけ???という疑問から、poliには、この本も想起されてきたのである。