庶民とか、市民とか自称してみたり、考古学に資格を設けてみたり。

 たとえば、中島義道は、一般書においては『哲学の教科書』う〜みゅ、こんな恥ずかしいサブタイトルが付いていたなんて、すっかり忘れてたを皮切りに、哲学というののそれこそ自己閉鎖環境にあっての私的な問題意識の彫琢であることを説いてきた。

 考古学するのもそういうことである。

 こんなもんに社会貢献を付与しようとする強迫観念こそ、埋蔵文化財によって生成されたものではなかったか。

 そんなことも分からないで上のような、どっちつかずな怨嗟の声を放つ反動濃縮還元な人種がいたとは。

現代の化石やね(、、、ベタだ)

そう、AでなければB、BでなければAとかいうのは、もヤメぇ!!いうことである。
 考古学は、私的な問題意識の彫琢である。であるからこそ、埋蔵文化財として社会と交錯した途端、むしろその意識の強弱が出来し、遺跡が残ったり消滅したりする。ま。社会なんだし異なる外圧がないとはいわないけども。
しかし。
 この外圧がない場合は、確実に最前の意識の有無が作用しているのは、まぎれもない現実である。

 そもそも考古学は資格を設けるというのは、また妙なベールを設けるということで、結局その庶民とかいうお方々の眼をくらますことになる。
 こういう意識って、捏造以前・以後と、どう違うんだね??
 あの騒ぎはやっぱ祭りで、誰も何も学ばなかったのか。こんなベタで醜い反動がまかりとおっているとは、情けない。

だから。
そんな正面から答えてやらなくていいですよ。疲れるだけですから。poli、おめ〜もな