檜垣立哉といえば、

 この独白であろう。なんか抜粋は無粋な気がするのでここではしない。
 大抵現代思想の紹介を活発に行っているひとたちは、自分の内奥に触れることに積極的でないのだが、これほど真摯な筆致があろうか。それともこれが身体を思索する者のスタンスということなのだろうか。

 我ら書痴は、目下、デリダレヴィナスのあいだの歩き方を合田正人から、そしてフーコードゥルーズのあいだのそれをこの檜垣から預かることができる。この二者はいずれも、自らの貌をときどきみせる。それは過日示した中島義道のようなやや高圧的なあの”こっちが疲れる”ようなしろものではなく、もっと素な風貌をみせているといえる。

 もっとも、彼らが先行者とする4人の哲人も、確かに衆生にガンガン下りまくったま、違う意味でもなフーコー”でもしか教師”のような発言をしながらも、制度とは何かを高校生に伝えようと教科書に書き付けたどこが”でもしか”だよっ!ドゥルーズ、その著作にあっては思索の住人でありつつも、異なる理解の難い言語の地域の研究者がはるばるおとずれた際には歓待を大切にすることを専らとしたのはレヴィナス、といった感じである。デリダは、過日にしばしば示してきたとおりである。

 現象学に、生き生きとした現在という語句があるが、そう。これを体現しているかのような面々ではないか。生き生きとしているから、現在なわけだから、象は凝結を堪えることなく絶えず揺らいでいる。予定調和で常に断定的な物言いをするような凝結をみるよりはヘンに勘ぐることもない。