ここでカール・メンガー注入。

 冒頭でゲットしたメンガー。彼は、ドイツ経済学の歴史学派の頬に手袋を投げつけたホワイトナイトである。
 (ほわっ!!分かりにくっ)、、もとい。
 ドイツ経済学の歴史学派が、

やっぱ、実物にゃ〜、敵わないニャ〜。ニャにゃ〜

と、なんか納得して肩をたたき合って和気藹々としていたところへ、

どう敵わないか、説明する手段がね〜よ!!どおすんだよ。
てめ、そんなとこでねてんじゃねえぇぇ(?)

と、猛烈な突っ込みを入れた。わけである。(ん〜ますますわからねえ。置いてきます)
 金子さんのいう、文脈の切り取りに際して何の検討もない。切り取りの意図などについて、何の検断もない。ひたすら、現象のあるがままを受け入れる「実物にはかなわない」というアノ錯覚に囚われている。メンガーをこれを衝いた。歴史学派が借景した、歴史法学の範囲規定にまで遡行し、これを示すことで批判する。


歴史法学派は具体的な構成と歴史的な発展に於いての法の研究以外に法についての本来の意味に於いての理論的科学を何ら認めない。従って歴史法学派にとつては法学は一般に歴史的科学であり、その目標は法の歴史的理解であつて、たゞ独断論のみが是認されるにすぎない。
(『経済学の方法に関する研究』p.45 第一編第二章註10より)
 ただ、彼は、人々の貨幣制度の起用を例に、必ずしも制度が社会全体の合意を前提に導入されるとは限らないことを説明する。ん?じゃあ、遡行できないではないか。遡行すべき筋道である因果関係がないというなら、ダメでねえの?という反論も予想できる。

 確かに。メンガーがここで制度の導入までの因果に焦点をとどめてしまっているのは一つの限界である。poliは、更にその導入ののち、制度の使用が存続したその因果への照射を要請するし、fischeさんも制度への考察の焦点もこっちであろう。遡行が無力、というわけではない。制度の実体は、その使用をも帯びている。ということである。

 poliが、捏造祭りをネタに羽入辰郎に噛みついた折原浩に不快感を抱いたのは、この方法論争の解決案を提示したマックス・ウェーバーの客観性論文の紹介者であるからである。てなくらいに方法論争をコチラのセカイに注入することが有用であろう。それは、そりゃあそりゃあ、ポパーの反証不可能性を上回る(ポパーなどコチラに導入したら、ぜ〜んぶ赤点だということを、皆さん気づきましょう。ま。気づいているから誰もコトバを継がないのだろけどね。とほほ)と、poliは言い切って仕舞いたいくらいに。(ああ〜しつこい)
 方法論争の介して、その稚拙さを一瞥するくらいの酔狂が彼になかったことはかなりザンネンであった。感情に囚われて不用意でヤケクソな例示を働いたあの無意味な行為は、晩節を汚したといわざるをえない。っつ〜か、なんでこんなダメなテキストしか紡げないpoliごときが、方法論争だのメンガーだの言わにゃあならんのじゃい!!役者はおるだろうがっっっっ!いうのがホンネである。彼も内部化をいそしむアカデミシャンの一典型に留まる、ということなのだろうか。

洞窟の哲学者はいずこ。