再び、大庭本。

 もっとも、彼は爆発アタマ先生の前期から後期へ思考が移行した視座にいることを示唆している記述がみられる。著者にとっても、ハーマンも先生もあれかこれかのササラな途のひとつひとつなのだと思う。


私たちからすれば、「痛い」「辛い」「惨め」といった言葉は、そのまま「そういう目に会いたくない、そういう目に会わせるな」ということを意味する。こう言うと「意味」という概念を水増しし過ぎている、と感じる人もいるかもしれない。しかし、そうではない。言葉の意味は、その語が何を指しているか、という指示対象には尽くされない。その言葉が、どう用いられるか・その言葉を使って何が遂行されるか、ということもまた、ことばの意味の本質的な構成要素である。
(『善と悪』p.29 ll.5-10 太字強調は引用者。)
太字の前者が、前期の主体=写像説なら、後者が、後期主体の言葉の使用説、である。