倫理研 第5回 共同討議 第2部 9 国家からコンピュータへ移る「複雑性の縮減」装置


北田:
その話を聞くにつけ、近代国家が担ってきた「複雑性の縮減」の方法論が限界にきているのは明らかだという気がしますね。

東:
そろそろ結論に入りたいと思います。どのようにして世界の複雑性を縮減するのか、いまやその方法論が大きく変わりつつある、ということでは、みなさんのコンセンサスが得られていると思います。私たちは、その結果、公的/私的、表現/存在といった、かつては自明だった区別が溶解する局面にいる


しまらねぇな〜、そこのタウンミーティング!!

 現行で用いられてしまっている〝「複雑性の縮減」の方法論〟縮と減のうち、減だけに焦点が置かれ、縮に光を当てた展開に消極的である。もっと分かりやすく言えば、この含意は、減ではなく、で解されているということである。このタウンミーティングにおいては、白田秀彰の読書近況に目ざとく所有権の問題と指摘しているにもかかわらず、これをとっかかりとして、減の含意に引き戻すことができるだろうにできていない。

ふぅ〜

 お待たせしました。オチです。そう。アノ人物が、銭ゲバと見まごうばかりにリスクを分散する態度。これも複雑性をコントロールできる単位に〝分割して減する〟態度(複雑性の分割統治??)の一類型なのである。

と、これに関連して、白田秀彰によって、彼らの後でこう〝締め〟(と東が賞する)られている。


白田:
社会の複雑性を縮減する装置が、国家からコンピュータに移る。そしてコンピュータに相当の個人情報を渡すようになる。そうだとしても、これまで憲法によって国家を縛ってきたように、なんらかの強制的な枠組みをかければうまくいくかもしれない。それこそ、私たちの社会がこれまで歩んできたプロセスの直線上にある。そんな気がしてならないんです。
 白田秀彰は、制度としてみている以上、社会の複雑性を縮減する装置の担い手は、あくまで制度を敷く側という言説の形をなしている。しかしpoliからみると、分割統治する上の銭ゲバサマのような態度のように、制度の享受者の中から新たに制度に取って代わる選択が、既に現れているようにみえる。そういうことを見落とし、あでもね〜こでもね〜と議論している自分たちは、ちっと足下がふらついてやないだろうか。銭ゲバサマのほうが腰がはいってる、というわけである。
 でも、

漢字が全然よめね〜よめね〜

はい、オチました。