ニクラス・ルーマン, 河上倫逸ほか1991『社会システム論と法の歴史と現在』未来社

 フーコーや、デリダ、先日のハーバーマスといった、時系列に置くとめまぐるしく変貌しつづける思考の持ち主と違い、ルーマンという人は、重ね着をしているような変貌を遂げてきたのか、と本書の質疑応答からは伝わってくる。
 その一貫した視座として、複雑性の縮減というものがある。ネット上では、スペンサーブラウンの援用を衝いて、
お祭りジャ〜!!糸冬了!!
という始末のようだが、ここコテブロでそういう作法は通用しないのは、再三主張してきた通りである。社会システム論だの自己言及性だのを持ち上げる向きばかりだが、彼の揺るぎない因子はむしろコッチである。
 、、、、と、かってに判断し、

を読み、満腹していた。(実際には、〝大澤代数学〟『形式の法則』そのものと進み、アタマがパンクし酩酊。)
 ルーマンは、人間関係のなかに現れる複雑性に対峙する行動として、信頼を得る過程に焦点をあてる。その分析は、難局の処方箋ではなく、現状分析であることも兼ねて、以下の留意を読者に求める。


信頼とは、〔与えられている量を〕超過して引き出された情報なのであって、信頼を寄せる者は、たしかに十分に詳しく・完全に・信憑性を伴ってではないにせよ、しかし、一定の基本的な特徴に関しては事態に通じており、既に一定の情報を得ている、ということが、信頼の基盤なのである。
 もちろん、信頼の形成のためのこうした手掛かりがあったとしても、そのことによってリスクが消えるわけではない。そうした手掛かりは、単にリスクを減じてくれるに過ぎない。それらは決して、信頼する相手に期待できる行動について、完全な情報を与えはしない。それらは、単に、一応は限定され構造化された不確実性へと飛び込んでいくための、跳躍台の役を果たすだけである。従って、経験的に調べてみれば、信頼の基盤が原因となり、その結果として信頼が実際に表明されるという、厳密に法則的な連関が見つかるだろう、などと想定することはできない。
(『信頼』p.57 ll.8-17。太字強調は引用者。)
「なくすのではなく、減じる」動き。そう強調するのである。
で。
 複雑性の縮減という語の使用の現在形として、以下のものがある。