他の岬を眺めてみた


IronPython自身はC#で実装されている。

IronPythonの起源は、「CLIの設計は動的言語との相性が悪い」という.NET Frameworkの問題点を検証するために作成された検証用のプロトタイプであった。IronPythonの作者であるJim Huguninは2003年に、この論文を発表した。その後、「何故、.NET Framework動的言語として駄目なプラットホームなのか?」という短い論文を書くために、Pythonの移植を試みたところ、彼の意に反して良く動くものができてしまった。そこで、彼は開発を継続することとし、Open Source Conference 2004 でIronPython 0.6をCommon Public Licenseでリリースした。2003年の論文が間違いであったことを、彼自身の手で訂正したことになる
Wikipedia"IronPython"の記述より

 生業という〝向こう側〟においてはこういう曲折もありつつ進展してきた。たがだが4、50年の話である。
 で。〝こっち側〟は、どうなのか。その歩みは、100年前後のより長い時間を通ってきた。現象面から大きく逸しても築かない壁を築いてしまうような、そんな信念ばかりが厚みを増してやしないだろうか。信念の寄与は、当為の議論においてはあるだろうが、現状分析にあってそれはいかがなものだろうか。
 捏造祭りの生じたその足元を見ようという試みは、今となってもあまり見受けられないようだ。足元を物理的に掘ることはあっても、その発想のなかでは働かないらしい。
 いっぽう、こういうコトバも。


おめ〜に喰わせる銀の弾はねぇ!!

ちっともウマくね〜ぞ!!

わぁ〜ったよ。いいたかったんだよ!!いいじゃね〜かこれくらい。

民話の中の悪夢に登場する怪物のうちでも狼人間ほど恐ろしいものはない。というのも、狼人間は慣れ親しんでいるものを不意に恐怖に変えてしまうからだ。だから、私たちはこの狼人間を魔法のように鎮めることができる銀の弾を探し求める。
 慣れ親しんだソフトウェアプロジェクトにもこうした性質が若干あり(少なくとも非技術担当マネージャーの目から見ると)、ふだんは無害でまともなのだが、スケジュールの遅延、膨れ上がった予算、そして欠陥製品といった怪物にもなり得る。そして私たちは銀の弾、すなわちコンピュータハードウェアのコストと同じようにソフトウェアのコストも急激に小さくしてくれる特効薬を求める必死の叫び声を聞くのである。
 しかし、これから十年間という範囲で眺めると、銀の弾などはどこにも見えない。
F.P.ブルックスJr.2000『人月の神話』ピアソンpp.166下-167上 ll.14-19, ll.1-9
 過日、複雑性の縮減の使用例として挙げたものをクサしてみたのであるが、彼らは銀の弾であるかのように、つまり方法論か何かと誤認して議論を展開させている。そのうえ、うまくいかないからといって、早々棄却して新たなゴミものを掴もうとに飛びつこうとする。って、とりたてて強調するまでもない、ベタな所作ではある。しかし同日に引用した『信頼』におけるルーマンの言及をもう一度確認してもらうとわかるだろうが、かような件の所作を明らかにルーマンは予見しているのである。そういう意味でもベッタベタなことをしているということになる。方法論の棄却ではなく、これは現状認識の放棄にほかならないのである。現状から離れて新たに方法論という名の「制度」を〝注入〟するというのは、屋上屋を架しているにほかならない(嗚呼、キモチわる。オラ足元がフラフラする)。