塩沢由典1998『市場の秩序学』ちくま学芸文庫

 経済学の研究において、合理性の限界という状況が語られることがある。経済学のパブリック・イメージというのは、数式と統計で物を言わせる、というものである。このイメージを作ったのは、計量経済学の功罪であるとされていて、古くイギリスではアルフレッド・マーシャル、日本では(正しくはこれもイギリス発なのだが)森嶋通夫という、遣い手本人たちの方から、行き過ぎを危惧あるいは反省を促す発言を度々なされてきた。いわばそのイメージの内奥は、鬼っ子的な側面でもあったのである。で、その決定的なものを見つけ出したのが、複雑系経済学の領袖と目された塩沢由典である。計算量の理論を介して合理性の限界を導いたのである。


 ところで、商品の種類が一〇〇以下という経済は極めて原始的なものである。フランスでは中世末期に二〇〇以上の専門職業があったというから商品の種類も粗く数えてそれ以上あったに違いない。現在の日本には数千万品目の商品があると推定される。一〇〇は商品の種類としては極めて小さいが、最大化計算の規模としては手に負えない大きさである。一般均衡論とその構成部品としての最大化仮説とが見逃してきたのは、実はこの懸隔であった。経済学は通常二財、三財の経済を想定しn財の場合も同じようにと類推する。しかし最大化計算ではnが二〇以下とそれが一〇〇以上のときでは実際的には可能と不可能とに分かれてしまう違いなのである。
「第9章反均衡から複雑系へ」本書p.259 ll.4-11
 、、、う〜む。経済学者は、どうやら考古学者に比べてそんな蛮勇ぶりを見せつけることなく、現象面に対しては割り切って『通常二財、三財の経済を想定しn財の場合も同じようにと類推する』途を選択するようである。(ちなみに、この類推の手法ともいうべき大数の法則を、確立論の研究者であったケインズはあの一般理論に至る為の武器として用い、その弟子ロビンソンは、そこから合成の誤謬を見いだした。)しかし、そのnの涯が、一〇〇以上まで超過するとなるとこの類推を支える合理性も、孕む誤差が肥大し揺るがしていく。塩沢はいみじくも、これを計算量の理論から読み解いたというわけである。
 で。poliは、「重なり」という現象面から、大数を介する合理も見いだせず、例の蛮勇をもって実体として挑んで、記録を落とすたびに、合理から徐々に乖離していく。もっとも、この合理性の限界というものがあるというのなら、poliのようないい加減なもんのオツムには、上に示した状況よりも、とっとと早々に現れているだけのことなのだろう。、、に、してもだ。
 上の近代遺跡で引いたような、全体と部分の二正面が次々にやってくる事態に際しては、より賢明な者ですら合理性の限界へと意識がしむけられるにちがいない。poliには、冒頭2つの態度のうち、距離を取る態度に向けさせた契機こそ、この意識ではないかと考えるのである。
 と、まあどうも、後者の態度については、poliの眩暈の彼方からは、かすってこないので、どうともいえないくらい汎的な問題意識である。が、正反対に見える云々などのやり取りは、近代と脱近代を模索するハーバーマスの傘の下で議論しているようにも映る、、イヤイヤイヤ気のせい、気のせい。