距離をとる態度と、肉薄する態度

 が並立している。
 まず、距離をとる態度から。


ベッカムだかオッカムだかというオッサンの剃刀、ということもありますので、ここは少なくまとめるために、まず考古学的調査の対象の範囲を決めておきます。古いほうはひとまず置くとして、新しいほうの対象は、一応、その施設の本来の機能が終了(廃棄)されたモノ、例えば、現在使用中(機能中)の家(施設)は含まない、ということでいいですか(未発掘の古墳で石室が開口している部分を見学者に見せるという機能は、その古墳本来のものではないので除外する、ということになります)。

伊皿木さんの日録2006/11/27の福田さんのコメント1投目より

んで。肉薄する態度というのは。これ。

私は考古学概念の近代性を指摘し、その性格に留意すべきことを述べたまでで、ここでは日本考古学の概念一般の優劣状況(先史主体というの状況)を指摘したわけではないのです。言ってみれば、私は、ここでは先史考古学のほうを心配しており、考古学における近代主義を批判しているのです。多分、近代以降のほうを心配している(誤解なら指摘して下さい)五十嵐さんの意見との関係は、対象的というより、斜めにクロスして、ともに従来の考古学概念を改変しようという立場として一致すると愚考いたします。私は、近世・近現代の遺構・遺物の方が様々な点で今後の考古概念の立ち上げに適しているから重視しているのであって、加えて、考古学が近代の所産のゆえに、どうしても近代主義はまぬかれないとは言うものの、その点を十分に考慮しつつ、逆に考古学に近代からの視点を持ち込むことも重要だ、とも主張いたしました(ここのところが微妙なのですが)。

前掲2006/11/27の福田さんのコメント3投目より

 poliは、ただでさえ生業として事象に立ち会っている彼らにどうこういうのは、愚かであることを承知のうえで、この甘言を連ねてきているわけであるが、ただでさえ、現在そこに在る我々の眼前からみて、

ち、、、近いな、、、、

と、言わんばかりの布置を取って出来してくる近代の遺跡・遺構・遺物は、やはり、この一見相反する2つの態度を持ち合わせて向かい合わざるをえないデァ〜ブルスタ〜ンダァ〜ド!?、ということをしめしているのだろうか。そう、解する。
 poliが思わず記した〝やはり〟という感慨は、過日に示した「重なり」への眩暈ゲロッパ??マロニエをフガフガ嗅いだ覚えはないのだが、、が念頭にあるからである。

エエ〜、散発的な分布をする近代の遺跡だってあるよ


あーあー、あるでしょ〜とも!でも、それは今はちょっと置いてやってくれや!!



で。あのように書いた後、あの眩暈はなんなのか?ということをつらつらと、javaのソースをみながら、vb6のソースをみながら、BEA WebLogicの品定めをしながら(生業もちゃんとしてますですよ、はい)、まあダラダラと、うだうだと、、考えていた。