竹内郁雄・大澤真幸1997「第十二対話 地球村のパラドックス」『新科学対話』アスキー出版局

 先日、『1968年』のばかばかしい記述に辟易したわけだが、何が馬鹿馬鹿しいかといえば、グローバリゼーションの尖兵を気取る一方、自分たちの同類が、2007年問題とか何とかいってこの数ヶ月TVの前にあらわれ、「自分たちの世代は、他の世代に分かってもらえない」みたいなことを未だに口走っていることもひとつにはある。

分かってもらいてえから、そんな場に出てしゃべってるんちゃうんかい!!
いってえ、誰に訴えてんだよ!!
おまえらも自己破壊上等かよっっっ!

「ふっ、ジコヒハンといいたまえ」「どこがじゃ!自己肯定の何者でもないわい!」
 地球村のマーブルチョコレートを取り出して、グローバリゼーションへの欺瞞を喝破したのは、人工知能の造物主の一人とされるLispの大立者、竹内〝たらいまわし〟郁雄と対談した大澤真幸である。


大澤 僕は、グローバルなアイデンティティというのは、ひじょうに持ちにくいと思います。言葉の問題もありますしね。
 さきほどの遠隔地ナショナリストの話で、たとえば、スロヴェニアが独立を宣言すると、突然、アメリカに「スロヴェニア系」アメリカ人が登場するのです。おそらく、それまでは自分がスロヴェニア系だということなどは、ほとんど意識していないはずです。その人にとって、スロヴェニア人であるというアイデンティティより、アメリカ人であるというアイデンティティのほうがはるかに重要だったはずです。ところが、スロヴェニアができた途端に、自分がスロヴェニア人であったということに目覚める。
 スロヴェニアには、もちろん、昔からその地域にコミュニティがあった。しかし、アメリカにいる人たちは、つい昨日まで、スロヴェニアとかクロアチアとかの区別に、ほとんど無関心だったはずです。しかし、その区別ができると思った途端、むしろ区別するほうにコミットするんですよね。
竹内 おもしろいですね、それは。
大澤 ネットワークがグローバルになればなるほど、一方ではもちろん大きな全体というものが僕らにとってひじょうにリアルなものになってくるんだけども、グローバルなアイデンティティを獲得するのではなく、逆に信じられないほどローカルなものにみんなこだわるようになるのではないか。
 ただし、そのローカリティは、昔のように物理的な空間とか、地理的な空間に一致しないわけです。現在の制度とか法律は、みんなそういう空間的な地域に合わせてつくられています。そこに住んでいる人々のアイデンティティと整合性がある場合には問題がありませんが、それにズレが出てくるとさまざまな新しい問題が出てくる。
竹内 本当にさまざまな人たちが混在する社会になって、何だかマーブルチョコレートの大集団みたいなものになっている。今は、赤いチョコレートや黄色いチョコレートが、ある程度はまとまっているけども、ボーダーを簡単に越えられるコミュニケーション・メディアの登場によって、そのうちにグチャグチャに混ざってしまうということですね。
大澤 さっきの遠隔地ナショナリストというのは、そういうところで出てくる問題です。客観的な制度と本人たちが持っているアイデンティティとが、うまく一致しないということが頻繁に起きるようになる。それをどういうふうに調整するかが、たいへんな作業になってくるんじゃないか。
(竹内・大澤1997 p.230 ll.3-19, p.231 ll.1-11 談話部分の太字表記は引用者)
 引用にあるパラドックスを体現する存在こそ、冒頭の連中といえる。すなわち、他人様にグローバリゼーションを煽っておきながら、自分たちは、自らのローカリティが大事というその有りようが。である。
 また、彼らの世代間倫理への鈍感さには、慄然とするばかりである。つまり彼らはヨコの広がりにあっても、タテの延びにあっても、マーブルチョコレートでいるというわけである。そして、他の世代(poli自身も含め)もそれを受け継いでしまっているかもしれないわけだが。