鈴木公雄1989.1『貝塚の考古学』東京大学出版会

 この本に示されたコトバをちょくちょく思い出すのだ。
 鈴木公雄は、チャシの研究者を志したものの、清水潤三の千葉北部などの総合調査への尽力から縄文時代晩期研究に貢献、縄文時代の研究者と目されるようになる。さらに伊皿子貝塚の調査にて、彼の調査団が定量分析法を導入したことで、貝塚という、この遺跡とも遺物ともつかない対象を分析する際の更なる深化をもたらしたことはこの学問の世界ではよく知られていることであろう。
 こういった分析の成果のなかで、微小巻貝の分析というものを実践している。本書でこれを説明するなか、こんなことを記しているのだ。


 発掘の現場で直接得られる所見と,その資料を分析した結果考えられる点とがいつも一致すればよいのだが,時として後にでる分析の結果が,先に得られていた現場での貝層の観察結果とは異なったものとなる場合が生じる.そのような時に,どうしてもはじめに現場で得られた所見の方を重要視してしまい,新しくわかった分析結果に基づいて,発掘時の所見を訂正することを躊躇する傾向がある.【引用者略】やはり分析の結果から調査地点での認識を改めていく必要がある.(pp.89 l.1〜13)
 これだけでも、現行の研究者には肯ずるくだりであろうが、この直後に印象深い今回の問題の一句が現れる。

 このような問題を, 来日した国立オーストラリア大学のゴルソン教授と話していたところ, 私の話を聞きおえたあと, ゴルソン教授はニヤリと笑って, "One cannot see everything."といったのである. つまり, 人間は何でもわかるってもんじゃないよ, というわけである. 【引用者略】よく, 自分の発掘に限って間違いはあり得ないという自信にあふれた人に会うことがある自信を持つことは良いことだが, 自己に誤りがないと信じ込むことは, 自分の可能性を自ら殺すことになりはしないだろうか. (pp.89 l.14〜26)
 だめ押しかよ、ってそれは違う。
 私はこの"One cannot see everything."というコトバは、鈴木の解するところの他に、まだくみ取るべきものが含まれているように感じる。誤りがないか確かめるというところまで分かるが固まっていなくとも、分かっている部分と分からない部分を開示する、あるいは何が分からないか分からない対象がどんなものなのかだけ示してみる。こういうレベルの端緒として、このコトバの意義深さをpoliは思うのである。
 何でも分かるとは限らないからこそ、全体像が見えるまで待つなどという山内清男が『日本考古学の秩序』で示したようなあの潔癖性じみた不可逆的な「発想モデル」に殉じることを強いるのは、滑稽でもある。あんなタテ前本気にする馬鹿が何処にいるんだかおうpoli、ぎょ〜さんおるで〜
 全体像を待つ立場もまああるだろうが、待ちたいやつはまてばええ。杉荘スタイル!二軒家サイコー!そういう立場にいられないひとは、そこで頓挫しろというのか。違うだろう。現時点の像を他者に語るよう努める方へ動くべきである。
 他者はそれを観、「イヤイヤイヤ、そりゃ〜ちげ〜よ」とか「なんだね〜、poliはいつもそういうのがアッサイんだよね〜」とかいわれながらそんなんばっか言われてるのかpoli、当初示した像がまた違ったものに変化していく。「いやぁ、ホ〜チされたら、そのままだけどね」「わぁーとるわ!そんなこと!こちとらなれっこじゃあぁぁ」
 もっとも、poliのような気の落ち付けどころが皆無なヨ〜スのおかしなもんはこうして見える限りの像モドキをタレタレ垂れ流しのマキィィィ、なわけだが。
処置無シダゾpoli