福田敏一『方法としての考古学』雄山閣

 先日ここで紹介されていたので、コメントしたものの、また別種の見え方が考えられたので、ここに。
 結局のところ、赤松啓介の引用が偏っているというのは、一概にクサだけではない。あのような体裁である以上、あのような引用に留まるのだと思う。
 体裁というのは、そのものずばり体裁である。本文と註がEVENなのだ。どっちが主題なんだかわからない。あるブログの読後感は、思った通りの読み方で進行していた。それは、本文、註にちりばめられたあのコマ〜イ情報を一問一答の回答集か何かと混同して、全て拾おうと格闘しているのである。そういえば、いにしえの言にこんなのがあった。


こつこ〜つやるやつぁ、ごくろーさぁ〜ん
植木等
 全くそういう勤勉さには頭が下がる。しかし何でもそれが効用をもたらすとはかぎらない。この著者は、何も知識の断片をまき散らすためにそれを著したわけではない。そういう読み方は、結局著作の意図に辿りつくことはなく、読み手にとっての像が新に生成されることとなる。
 このようなキケンを孕んだ体裁をもつ、いやそれ以上にたちの悪いしろものをかつて見たことがある。
K.マルクス『ドイツ・イデオロギー』(新編輯版) 岩波文庫
 これも本書も、断片化が進み焦点は錯綜し本文と註が混濁している。こここで「それ以上」といっているのは、著述が複数名によってなされている分で。
 結果、同じ著者によって示されたとされる『資本論』以上に、解釈が読者の数だけ存在するという有様となって、現在に至っているのである。この散布された解釈の形態こそ、先に示したあの一問一答的な単なる自身の情報への知悉度の確認に留まった姿だとしたらどうだろうか。それを著した者にとってで、である。いくら作者の死などありふれた在り方だといって、伝えたかった意図は、宙に浮いたっきり、何処へ行くのか。
 本書が1冊に収めたことに無理があり、錯綜する主題を分けるべきであったというのは明らかだ。そして、上のような危惧を孕んでいるということも。な〜んて、単なる杞憂と片づけられてそのまま風化していくのだろうがね。
 もっとも、1章の内容前半部は、よほど従来の概説書、例えば中谷治宇二郎『日本石器時代提要』(岡書院、poliが読んだのは、甲鳥書林校訂版)のほうが健全な像を描いているように思う。
クラァ!poliぃぃぃぃ、古りぃぃんだよぉぉぉ!
 いや、しょうがねーだろ!ここに示された遺物汎論や遺跡汎論は、当時としても、情けないことに現在にあっても素直な問いが最も反映された(洗練されては、ないわな)著述なのであるから。大空社の「復刊活動」においては、これを射程に入れているのだろうか?嗚呼
 なお、山内清男を持ち上げる余り、中谷をまとも評価できないような、勅使河原彰の偶像史観(中谷の件は、孫引き元の佐原真が元凶ではあるが)なんぞを本書が批判したことは、個人的に評価したい。後出者の奢りというものは、学史にあっては慎むべきはなおのことであろう。