『触覚、―ジャン=リュック・ナンシーに触れる』。

 分厚いってんだよ!遅々として進まず。が。
 デリダがめでたしと終章を締めたのは、本書そのものに大して述べたのではなく、長年の大病をくぐり抜け、復活を遂げた後輩の有能な研究者(=ナンシー)を祝福するキモチが表出するものではなかったか。現に晩年の論文集のなかでこれだけ分厚い著作は久しぶりである。ここにもそういった彼のキモチが表れているように思うのである。私には、この『パピエ・マシン』(いずれも、ちくま学芸文庫)を著したvividな著者のイメージが強いのである。
 当初から一貫して饒舌な著述者であった。『幾何学の起源』青土社)の序説などは、本編を食いつぶすページ数を誇り、その厚みをつまんでしばし爆笑した記憶がある。が、晩年とみにvividさが増していたように思うのである。でなければ、あの『死を与える』ちくま学芸文庫は生まれなかったのではないだろうか。ま、このような読み方は、デリダ本人が最も嫌うところであろうが、彼はあまりに自らの個性をバカ正直に暴露しすぎているのだ。ガヤトリ・スピヴァクも彼のあまりに児戯にも似た(というか、中学生じみた)下ネタ全開な記述を楽しむデリダ『デリダ論』―『グラマトロジーについて』英訳版序文平凡社ライブラリーにて紹介している。
 それにしても、なぜ日本のデリダの信奉者は、彼と対照的にああも根暗で、因循姑息な輩ばかりなのだろうか。不快な文章のオンパレードである。彼らを通してデリダを読むことほど、無益でつまらないものはない。彼自身の著作(原典てこたあないわいな〜、フランス語が読めるわけでなし)にあたるか、彼自身が講義を行った国の研究者の著したものをあたるべきである。