廃棄・消費・貝塚

 ポリは、小五より世話になっている師から考古学を通して学ぶ愉しさを学んできた。その〝教材〟に位置してきたのが、貝塚というものであった。その愉しさから高校入学にあたって一旦離れたが、辛くも大学の考古学専攻への入学が果たせた。これに伴う愉しさの再開も、その貝塚の遺物の整理作業を手伝うことからであった。
 そして現在、再びその愉しさへの専修から隔たってしまったものの、5、6年ほど前、この貝塚という遺跡の形態から発想せざるえない命題を突きつけられる機会にもつこととなった。その機会からしばらく経て今日に至っても、やはり脳裏から離れない。その過程で、地元の図書館から偶然借りてきた書物がある。それが、

ケヴィン・リンチ1984.1『廃棄の文化誌―ゴミと資源のあいだ』工作舎

である。本書の紹介は、山形浩生氏によるものが知られているところであるが、未だ考古学関係者のコミットはないようである。
 私自身は、建築家・都市計画家の廃棄物への視点に期待したのであるが、都市計画の延長線上といえる、廃棄された都市の跡地の問題に最も雄弁であることがわかる。非常にアメリカという風土を反映した住空間のライフサイクルが豊富に盛り込まれている(「入植」などはその最たるもの)。著者は、価値の移行がこの種の廃棄を生み、それは都市でさえも同じであるというのである。日本にあっても、旧谷中村の調査の成果もこの代表例であろう。採掘という1プロジェクトの終了をもって廃棄された地域。その跡地は再利用し難い土地となり、無用となる。ダムに沈む村は、プロジェクトの開始をもって遺棄されるのであり、これとは対極である。(神奈川県宮ヶ瀬遺跡群の調査報告など)
 ちなみに、モノのレベルでの価値の移行に伴う廃棄物を扱った著作としては、

西野嘉章2004.4『ミクロコスモグラフィア マーク・ダイオンの[驚異の部屋]講義録』東京大学出版会

がある。
 翻って、モノの廃棄については、著者のより抽象度の高い省察が続く。されどここにあっても示唆に富むものをあまた含んでいる。例えば、


「モノを壊す」のは楽しい。これは否定し難い。廃棄は、モノを私たちに従わせる行為であり、私たちの進化の初期には有用な感情であった。(pp.60-l.1〜l.2)
この一節の直前には、権力論の検討対象として議論されるあれとかこれとかの顕示的消費(ポトラッチ)の説明があるわけだが、著者はここから漏れた視点を提示するのである。そして以下の通り、これを顕示的消費にリンクさせる。

私たちは、モノを壊すのが好きである。思い切りよく鋭く壊れる、ガラスや陶器のような人工的な素材を壊すのが、とくに面白い。私たちは、焚火を楽しむ。知っているモノを燃やしつくすのは、格別である。建物が燃えるのを見るのは、恥ずかしいまでの戦慄であり、心中の放火の虫が騒ぐ。私たちは、取り壊し業者は私たちの文化には、人間に向けて暴力をふるう傾向があり、それが転じて、モノに向けられていたのかもしれない。ヴァンダリズム(破壊行為)も、これと同じ楽しみを求めて引き起こされるものであり、私たちに相当な社会的な負担を課している。ヴァンダリズムは、力のない人間が行なう力の誇示である。(pp.60-l.11〜l.17)
実はポリは、先日ホテル・ルワンダを観にいった。上の引用部はその評にふさわしい一節のように映る。彼らは、逸脱した狂気に駆られたとは必ずしも言い切れない。ポリには、人間一般がふと陥りかねない姿に映ったのである。リンチの上の一節は、「そんなもん、好きちゃうわ!」といいたいものの、「まてよ?」と留まって考えてしまうのである。
 本書はこれらの節の後で「ヒトの廃棄」へと論を進めていく。ジョルジュ・バタイユはそれと関わりのない、先の顕示的消費の議論を深化させた。もしかしたら彼は、父を戦火に置き去りにしたという経験が、廃棄する主体に思考を留まらせたのかもしれない。
 と、ケヴィン・リンチの彫琢するモノの廃棄の抽象は、非常にシビアなものをも出来させる毒を含んでいるのである。