そうそう

 このままでは本当にチャカシ・ワードとなってしまうので。
 ヴァレ神父の籤言とやらの絵解きをま。知ってるのでしょうけどね。
その人は、ある難問を解く鍵を、ヴァレ神父という人物が書いた小冊子から得、その鍵に導かれて論文を書いた。この論文を批評した人が
昔話に描かれるような冒険でもしない限り、そんな天啓を得ることはない、と評した。彼は、昔話などではない!!とそのヴァレ神父のテクストを引こうと手にとり読み上げた。
しかし。


1回2回と繰り返し読んでいて、唖然とした。ヴァレ神父は、私がこれまで彼のおかげだと思ってきたような着想を少しも表明してはいなかったのだ。つまり, 判断力の理論と美の理論との間に例の結びつき【引用者註。どうやらこれが彼のアポリア】(かつては私にはあんなにも卓抜なものと思われた)を少しも設定してはいなかったのだ。
 ヴァレを読んでいて、(彼はほんとうはほかのことを話題にしていたのだが), 彼の述べてことから, 摩訶不思議ながら, 刺激を受けて, あの着想が私の脳裡にひょっこり思い浮かんだのであり, しかも, 私がアンダーラインを引いていた本文のなかにまるで沈デンしたかのように一体化してしまい, あの着想を私の着想をヴァレのせいにしてしまったのだ。
U.Eco1992『論文作法』p.(ローマ字記号の6)ll.11-20)
その人というのは、あのパース由来の記号論学者エコのことです。これだけ高名な人もこんなことしてたのね。という話。カオ真っ赤だったのだろね。どうつくろったんだろ。でも批評したプラチドさんて人もチャカすどころか、どうフォローしていいのか困ったことだろう。ま。酒気帯びだったから、酔ってましたで逃げたのだろか(おい)
こんな告白の直後「ああ、はずかしい」ではなく、やはりエコも、なんでそんな錯覚をしてしまったのか、ここを深めていく。お楽しみは本書の方で。
そんな鬼の首を取ったようないい方をするのは蛇足だ。真面目かプライドかなどヤラシイ話だ。「私もよっててテキトーに聞いてました」でいいだろ。ま。作者への問い合わせは正攻法だし。へたれで、後ろ暗いpoliには、決してできることではございませんですし。
 しかし。
エコのように、レンフルーや、さらに伊皿木さんがなぜ「社会の問題」をそこにみたのか、という問いの隘路へ向かうのは、やっぱ隘路なだけにヤなのかなぁ???と問いかけたくなる。