さて、Cは。

 商品と見なされたとたん、そこから逃げたのではなく、契約している当事者でないがため、そこからはけた。今回は。しかし上のAに類する権威が作動させる場合がある。公共、というか"みんな"とかいう不特定多数の信念。

「無駄遣いはダメーーー!!」
「、、○○くんだってもっているよ、、、、」

ほれ、こどもでさえこれを作動させるのである。商品からは契約のほか、実はAに介在する権威も顔をだすというわけである。


 戦後、学校の制度から離脱し、その社会的権威からも離脱した博物館は、相互作用や社会的権威を欠如したまま、学芸員を制度として開始し、社会に据えなければならなかった。それゆえに、その物象性の根は深いのである。(前掲 p.13 ll.23-26)
Aからの離脱、商取引という契約のような、相互作用とむすびつくことなく、標本ではなく主体自らを公共におく=制度化することに依存したものの、その充足感の欠如はやはり「標本」に依存することに回帰せざるをえない、で、その品評を享受する側に委ね、ちがう/ちがわないで分つモノの界に傾斜する。

ただいまの博物館による観客、利用者の囲い込みは、「ぼくらとちがったやつ」を「ぼくらとちがわないやつ」あるいは「ぼくらとおなじやつ」に仕立て上げる運動なのではないかと思えてくる。
(前掲 p.13 ll.7-9)
 と、著者は、逆に享受する側をも分つ対象となっていると指摘している。物象性の根はモノからヒトへも侵食しているということなのか。
 もちろんモノである標本も、「無限に収集し続け」膨らんでいくものの、延々と分つ行為は続いている。その証拠に、過日示した西野によって可視化された学術廃棄物なるものも、その実いっときは不可視とされていた「ちがうもの」であり、これらも満々と膨張に一役買っているわけである。