於:神奈川大学白楽キャンパス

 fischeさんとともに、
金子淳さん(パルテノン多摩、4月より静岡大学職員)
竹内有理さん(長崎歴史文化博物館研究員)
の発表であった。
 竹内さんは、乃村工藝社から現職に就いている。指定管理者制度下で、研究調査部門も含めて請け負ったその重責が反映した緊張した様子であった。この制度で一体誰に得があるのか。というか、得にこだわりはないが、損が込んでいるように思う。民間・非民間の二元論など、講師にその是非を向けるのは、正直場違いである。よせばいいのにしたり顔でのたまっていた輩がいたが。そういえば、藤沢市で開かれた某考古学の同好会の例会においても、同様な一幕があったな。彼らは制度をせっつけられた立場であって、そんなに聞きたいなら、

あのう、いわゆる御上とかいうアノ引き籠もり風情が押しつけてきた紙っきれに対して、どう誤魔化していったらいいっすかね?

とか聞いてみたら。というか、そんなこと聞かれた当事者の方がお教え頂きてぇや、てなもんだろうが。まあ。
 金子さんは、いままでの自らの道程を遡行していたらしい。纏まりを付けるのに苦慮した内容であったが、その着地点は、テクスト論の体裁をしたカントのような構図であるように思う。すなわち、
原文脈「本来の姿」 − (物自体)

脱文脈化「「本来の姿」からの切り取り」 − (感性)

再文脈化「展示の意図に沿って配置」 − (悟性、あるいは構想力)

と、言った感じか。ただpoliは、再文脈化にさらに「本来の姿」の切り取りが埋め込まれていく、そんな入れ子があるように覚える。その交通整理が、「沿って配置」の内容ということか。
 そんななか、さらに振るっていたのは、


オリジナルの実物資料には、材質や感触、かすかな使用痕など、大量のが付着するため、実物と対峙すればすべてが分かるような言説(錯覚)→「実物にはかなわない」
〜当日レジュメより
というものである。とある学問の住人は、耳が痛くないだろうか。彼らはこうした啓蒙を嗤い続ける態度をもってその学問内部に引きこもることを恒常化させてきた。その結果、毎日とかいう下衆な外部の攻撃にあっけなく陥落する。捏造祭りのことである。