L.ヴィトゲンシュタイン2002『『哲学的探求』読解』産業図書


 いずれにしても、原石を打裂によって加工し、器具をつくりあげる技術には限度がある。粘土を原料とする土器に対し、自由に文様をほどこし、独特の製品をつくるのとは、はなはだ異なる。【引用者略】わたくしは若いかたがたにつぎの言葉を提しよう。考古学における土器は言語であり、石器は音楽である。
(杉原荘介1965「先土器時代の日本 三 先土器時代遺物の研究」『日本の考古学』Ⅰ 河出書房新社 pp.15 ll.18-21 - pp.16 ll.1、太字強調は引用者)
 あの〜、いくら悪食のpoliをもってしても、これを摂取したときは、しばらくトイレをお百度でしたゼェッテ〜嘘だろ!!ったく、どんだけ嫌うんだよ!!
 ただ後世に麗句?として知られるこの文句は、poliからみると、かえって直前の指摘の理解を邪魔するものにしか映らなかった。全くイケてなかった。勘弁してやれよ
で。
 なんでそんなことを蒸し返すかというと、本書にてヴィトゲンシュタインがナニやら述べていたからである。ナニやら。

527.言語の命題を理解するという事は、音楽の主題を理解するという事に、人が思うよりもずっと似ている。しかし、かく言う事で私が意味している事は、こうである:「言語の命題を理解する」という事は、人が通常「音楽の主題を理解する」と呼ぶものに、人が思うよりもずっと近いのである。音楽に於いて、何故音の強さとテンポは、当にこのリズムの中で動かねばならないのか?人は、こう答えるかもしれない:「何故なら、私はそうする事が何を意味しているのかを知っているから。」しかし、そうする事を意味しているのか?私はそれについて言語的に語る術を知らない。しかしそれについて「説明する」ために、私は、それを同じリズムを持っている或る別の音楽と比較する、ということは出来よう。(人は言う:「君は、「説明する」という事は結論が論理的に引き出されるようなものである、と見てはならない」;或いは「「説明する」という事は、言わば、挿入である」;等々。如何にして、人は、そのような比較を基礎づけるのか?――ここには、非常に種々様々な基礎づけがあるのである。)
(前掲書pp.294-295 ll.22-28, ll.1-7、強調太字は引用者)
 ほらほらほら、欧米の憂鬱なカオした爆発アタマのヒトがこういってるぜ!やっぱ、あの台詞で説明を模索する態度が表出した直前を霞ませちゃあ、まづいって!!ナハハハハ、、、とpoli独り爆笑。