千両役者、面目躍如す!

 や〜っぱ、アレ、一ボケカマしてたワケね。としか思えない。上のガッチガチな批評。こういう地味な仕事は、ここだけなんだろね。当事者としてこの著者でもある福田さんもコメントに現れている。高度なハナシだ。でも地味だ。しつこいす
 しかし、先日のもやもやを孕むpoliには、コーブツもコーブツである。
 伊皿木さんの紹介からだけでも、示された報告書を実見していないのに、考えることばかりだ。先にモヤモヤの件、すなわち誤用の実際についても、そしてpoliが、近代遺跡の調査に従事するpoliの師との語らいのなかで、かねてより思ってきたことも。
 彼らと違ってpoliの思考はおおざっぱであるから、アホに聞こえるだろうが、近代遺跡の物量(情報量)の多さは、いままで積み重ねられてきた遺跡の調査との明快な差異である。調査区当たりで検出される遺物と遺構の密度の濃さ、といったほうが具体的であろうか。
 なあに、トータルで落としていけば大丈夫だよ




 そんなことたぁきいてね〜よ!!測点を落として記録していくという原理はなんも変わらんね〜っっつ〜んだよ!!決めるのは測る人間自身に代わりはねぇ〜ってことをわすれてんじゃねぇ!!ヴォケ!!

 6年前、某所にて平板だの遣り方だので集石の微細をとっていたpoliだったらそういってつかみかかったろう。
 あのときの心のうめきを出来させたのは、密接する対象を記録するということは、3次元の事物そのものを2次元化する営みに「重なり」という別種の3次元の夥しい凝集が加わっていて、これを打ち返すという事態であった。「単に絵心がないだけじゃね〜の」せいか〜い!!QED。フォ〜!ってバ〜カ!
 、、何やら違う方向に向かっているかのようだが。そんなことはなく、密集する事物、しかも三次元を描く大規模な構築物を相手する場合が多くなる近代遺跡は、先に示した「重なり」のオンパレード、というか「重なり」が一つに連なる構築物をそこに立ち上がらせているわけである。この「重なり」を逆に構成する要素を語用サイドから模索が行われている。伊皿木さんの言説から、そのように映ったのである。慣用化する語用に危惧を感じる伊皿木さんの視点から批評されるその言説は、ただ危惧にとどまらず、ではどう模索するのかということの、いみじくもひとつの提示となっているように思う。また、以下の本を想起していた。