ローレンス=レッシグ『コモンズ』翔泳社

 生業として、プログラミングを行う。エラー抑止のルーチンを追加するという作業がその徒労感を含めて、法の冗長さと紙一重であるという錯覚に陥る。

どんだけ固めれば気が済むんだよ!!

「なにを言っている!!これがプログラミングの功徳というのものだ」、、そ〜か??
みたいな。上に挙げた2著はそういうのの見本市みたいな本である。おいおい、著者の真意は何処へ行くんだよ!!
 プログラミングは、データ構造の選定から、という主張が存在する。(オーソリティこれなのでしょね)その一方で、企業システムだのWEBSERVERだのコンテナだのが完成しても、そのライフサイクルはおしまいというわけではない、と言う認識もまた存在する。その認識こそ、オープンソースデベロッパーの語らいのなか、一頃前飛び交っていたYAGNIの原則の発想が生じた、いみじくもその背景となっている。
 で。ちとだめ押しながら。

情報とその使用とがなす形態は、制度のそれを帯びている。

と、poliは、愚考いたします。

 デジタル・ミュージアムや、fischeさんがよぎったという情報化社会における、〈知識=資料論〉、〈情報=経営論〉は、そういうカタチが派生させているように思う。ただし情報としてみる場合。は、なのだが。
 情報の使用、認識論ひいては意味論の文脈としては、上のような諸発想は、囲んでいる方向性であり、囲いの内に焦点が"絞られて"いくほうへ、ひた走っているように見える。囲いの外に残されたものは、、、、なんじゃろか〜?とは、思わないだろうか。
 オタクの殿堂かよ!と言われそうだが、西野嘉章によって示された学術的廃棄物の展示にみるような発想は、囲いの外をpeepingするそれである。poliがそういう点でこちらのほうに魅力を覚えるのは、poliがこうした書込みをするような、後ろ暗いところがあるからでもあるが、いったん「語り得ぬものについては沈黙せねばならぬ」と言っておきながら、この囲みの外にみえるものを、さらに他に存する独立の言語ゲームの恣意的なルールの空間の産物である、と言わんばかりに、そのゲームルールの解明から、何とか他者に伝える術を模索したヴィトゲンシュタインや、やはりその種のものを伝えようと独自のレトリック造語(ま、この語もオリジナルではないけんども、晩年まで思考の核となった独自の語用。「レトリックじゃね〜か」そうともいう。かね??)を駆使して伝えようとしたデリダに惹かれているからなのだろうか。、、、と。