スガ秀美2006『1968年』ちくま新書

シャケみたいな字は文字コードにないんだから、本名の〝菅〟にとっとともどしやがれ!!手間なんじゃ!
 資本主義理論のひどい解釈が出現。宇野弘蔵が化けて出るね、こりゃ。グローバリゼーションは、おたくらの恵みの雨か何かなのかえ?リカードの「比較生産費説」が投入されれば、反対側の岩田理論も即〝限界〟を迎えやしないかえ??単純すぎ。
 リカードの「比較生産費説」と「ヘクシャー=オリーンの定理」などの「比較優位」の理論に、リストの「幼稚産業保護論」を対置する議論をみたことがある。しかしこれは、資本主義の求められるべき姿が地域によって国家によって違いがあることを示しているとはいえないだろうか。上のような解釈がひどいとするのは、このような外発的な要因の想定が何ら認められない点をいうのである。ま、彼らにゃ国家はクソだ、とでもいいましょうか、そういう軽視が貫かれていることプンプンなわけで。クサッなんで現状分析に理想像が介入するのか??やっっすい普請である。
 マルクスは、グローバリゼーションの尖兵などではなく、上のような差異をもって現前する資本主義を考慮していたリカードの徒として出発した研究者の一人なのである。リストでさえ、しかり。したがって、『一九六八年』のスガ秀美は、宇野理論を岩田理論より劣位かのような評価法は拙劣極まりないものである。〝パイプ〟をみている部位が単に違うだけのことである。そんな状況的な読みをしているなら、ネグリが廃れれば、今度は岩田理論がクサされる、といっているかのようではないか。ま、もっとも彼らが興味を示しているのは、マルクスではなく、マルクスを改ざんしたエンゲルスのほうであろう。ちなみにpoliは、『ドイツ・イデオロギー』(廣松・小林版)にみられるような切り刻まれた〝書殺〟とでもいうべき行為に及んだエンゲルスなど認めたくはない。かくも残忍なことをなして歴史を振りかざすとは。石器を埋めたF村某がダメで、エンゲルスがお構いなしとはどういう理屈であるか。poliのこのような単なる個人的な嗜好はイカンというなら、マルクスの現在的な問題意識としての経済学的思考を、自らの個人的な嗜好に合わないからといってこき下ろしたエンゲルスは、何も問われないとでもいうのか。

くわ〜!!

と、まあpoliにとっては、エンゲルスというのは、柄谷行人と同じくらい目障りな存在である。ハエ男、というかなんつーか。