トートロジーとは違うとは思いますけんどもね。
トートロジーはイカン!!とひとにセッキョ〜しておきながら、ほざいた数年後に、粗製土器から粗文帯土器へという、もろトートロジーな〝模範演舞〟を見せた研究者をpoliは知っている。あまりのボケッぷりに、
てめえはパンクロッカーか!!自己破壊上等なのか!!ゴルァァァァ!!!!
「いやいや。脱構築といいたまえ」「どこがじゃ!てめーみたいなもんがデリダを歪めてんだろが!!」
と、現場の事務所でその掲載雑誌を床に叩きつけたことがある。爆笑を交えながら。嗚呼、醜態。や、poliがね。
ただまあ、あきれましたけどね、ホント。
下に引用した、伊皿木さんが述べているような動機をもって、不適切なものを改めようと、当初は挑んだのだろう。と。
思いたい。
「慣用化」しているかどうかが、用語の適切さ、使用を継続することの根拠には、成り得ない。「慣用化」していようといまいと、不適切なものは、様々な立場の人々との対話を通じて改めていく必要があろう。
また「方法論の洗練化」を通じて「認識を共有化」することが、不適切であることが明らかな用語を継続して使用する理由になるとの主張も、下記に引用した主張を覆すだけの説得性に欠けるように思われる。適切な用語を用いて「方法論の洗練化」と「認識を共有化」することが、なぜ拒絶されるのだろうか。
〜伊皿木蟻化さんのブログ〜
伊皿木さんというひとは、何も呼称のみに焦点をあてて上の言を述べたわけでないのは、かれの他の論文をみれば明らかである。ただpoliは、冒頭のおバカな話ととともに、戦後日本の考古学が意味論へと遡及することに対し脆弱な部分を温存してき過ぎたようにみえる。
またpoliの大言壮語かよ!おまえは世界の王様か!
ってそれは違う。「慣用」の乱立は、日本考古学をみれば跳梁跋扈していることは明らかではないか。しかもそういう議論がない。地味なテーマだし、ハッケンがないものね〜。コラコラ
残像だらけで、どうやって論文だぁ、報告書だぁ、読むのかいね?
と思うと、いやあ、どうにもしんどいね〜うそつけ。おめえのコーブツじゃね〜か。ま、杞憂かね。
ともあれ、意味論への遡及でさえも論点が明確にならないのかとも思う。補われるべきは、(ま、そういう議論を自主的に行っているひとは、もうそういう発想になっているかもしれないが)では、その「慣用」と見なされる状況は、どういう使用、どのように用いているのかを検討する方向なのか???こんなんとかあんなんとか読んでおかしくなったともいえるのだが。さてさて。
、、、て?
糸冬りかよ!!
あ、終わりそうになったね。イカンイカン。