西村正衛1960「利根川下流域における縄文中期文化の地域的研究(予察)」『古代』第34号 早稲田大学考古学会

 早稲田の考古学にて、教育学部の西村正衛そして金子浩昌の学統は、清水潤三あるいは鈴木公雄の慶応大学と競いつつ、戦後の貝塚の研究を牽引し続けてきた。その影で、自然遺物の分析の精緻化が頗行的に進展し、人工遺物への考慮の希薄化を孕んだ学風が出来したともいえる。一方の領袖である西村もこの行く末は捕捉していたのではないか。そう思わせるのが、今回の小さな論考である。

 従来、一方ではこれを東関東中期初頭の編年、もう一方は東関東の貝塚の様相を考える基礎文献として引用されてきたことであろう。対象がもたらした成果の性格上、異なる方向から引用されるべきものであることはもちろんである。が。しかし著者にしてみれば、人工遺物の検討からも自然遺物の検討からもなぜ引用されるような記述となっているのかを考えてほしかったのではないか。でなければ、本考終盤にある「五、文化の統合的認識」の存在理由はない。

 本考には、彼の世代にとって先達となった戦前の貝塚研究者、特に史前学研究所員、甲野勇の「関東地方に於ける縄文式石器文化の変遷」(『史前学雑誌』7巻3号 1937)辺りが大きく作用しているようにみえる。彼らの開示した、「縄文文化の概括においては、遺跡と遺物の編年的列挙であり、文化の統合の面は無視され、南や北のばらばらの事項を集め合わすことで説明されている」という態度から、「統合的観念に準じて遺物と遺跡を綜合して考え、なお近くの類同を多く求めること及び比較研究によって、所定地域の物質文化の性格をより確実なものとし、地域的性格を捉えていくこと」へ進展することを推奨しているのである。(西村本人が直接引用したのは、大山柏・宮坂光昭・池上啓介「東京湾に注ぐ主要渓谷の貝塚における縄文式石器時代の編年学的研究予報〔第一編〕」(『史前学雑誌』3巻6号 1933)であるが、縄文文化の概括と明示的に言い切っているのは、史前学会内外見ても、甲野の「変遷」のみである。(1960年前後の時点、でだが。))

 西村自身の本考における研究対象自身に即した記述として、


現在の調査の範囲内において、同等の環境下に立地した遺跡と遺物の類同と相違を見究め、集約して類同の最多なるもの及び特殊なるものを配列し、それらの全体と、周辺地域の同時相の遺跡、遺物とを対比し、量、質的変差及び要素の有無を比較し、所定地域の文化の独自性をうかがうと共に、物質の選択の原因を追求し、価値体系と一致した行動の類型を捉えようとすることこそ、当面の地域研究の眼目でなければならないと考える
(本考p.23下段)

としている。ちなみに従来の方向性である前者を指して、「歴史主義的傾向」あるいは「事項そのものの歴史」として、今回推奨する方向性を「歴史科学」または「人間行動の認識」ともいいかえている。

 「人間行動の認識」を指向する彼を動かすキーワードとなっている今一つとしているのが、文化の統合的認識である。本考にて引用されるルース・ベネディクトの語句であるが、これを継承し一分野まで成長させたのがスチュアート・ホール率いるバーミンガム文化研究所のカルチュラルスタディーズである。ホールが差し出したバトンの数は、無数に分散しているし、日本では、特にポストコロニアリズム、すなわち人種研究の議論へと引っ張られる局面が大勢といえる。そんな彼の主要なキーワードとして、文化の節合というものがある。


節合とは、特定の条件下で、二つの異なる要素を統合することができる、連結の形態なのです。しかし、そのつながりは、いかなる時も常に、非必然的で、非決定で、非絶対的かつ非本質的なものです。いかなる状況下であれば、ある種の連結をつくり出しうるのか、構築しうるのだろうか、と問いかけなければならないのです。
(「ポストモダニズムと節合について」『現代思想』1998Vol.26-4(総特集スチュアート・ホール)pp.33下段傍点は引用者)

翻って、本考から。


考古学は歴史科学であり、遺跡や遺物の観察によって人間行動の認識に到達しなければならない。事項がいくら精密に分析され、系統立てられても、人間行動としての認識的還元が行われてなければ、事項そのものも歴史であり、自然科学的考古学に終わってしまう。こうした欠陥を補い、人間行動の認識に進もうとする考古学は、研究においてなお工夫と創意を必要とするであろう。
(本考p.24下段)

 ホールは、「決定」も「必然」もないのに、何らかの「状況下」であると節合が生じるというプロセスがあるということを、何らかの決定へのプロセスがありこれを自分たちが研究していると暗に示している。いみじくも上を述べた西村の「人間行動の認識的還元」が、このプロセスに当たってくるように私には映る。本考は、考古学を介して縄文文化のカルチュラルスタディーズを目論んだ、戦後縄文研究史上ラジカルな事象として読み替える可能性がまだ残されてはいないだろうか。

 poliの育ってきた場所は、三浦半島に位置する。ここでは岡本勇を中心に、縄文時代でも早期の推移をみる研究が行われてきた。岡本は、本考とほぼ同時期(5年後)に、早期にみられる事象として、上昇期というものを仮定した。その再認識のプロセスは、西村のそれと同種の手続きを踏んでいる。しかし早期的立地から前期的立地に移行する、という現象を、さらに西村のフィルターで早期を眺めると、その再認識のシナリオは、決して折れ線グラフのような単系的な進展ではなく、異なる生活様式が重畳する他系的、というよりホールの節合的なもののようにみれば無理のない像を結ばれてくるようにpoliには映った。時間軸を担う土器の、特に施文手段の不連続からも、また石器組成の不連続、集落形態の不連続、廻転押捺手法席巻のもとでの撚糸文という局地的な様相と挙げればきりのない諸断層が出来させている。

 戦後日本の考古学は、「文化の統合の面は無視され、南や北のばらばらの事項を集め合わすことで説明されている」段階から次に移行しようと努めることはなかった。近年制作された、『日本人・はるかな旅』という科学博物館の展示とNHKの番組とのメディアミックスは、この現状を色濃く表象する惨憺たるものであった。近隣にある東京国立博物館の学芸課考古班の管理職を務めた松浦宥一郎は、『日本の先史文化』(雄山閣刊)において、北と南の文化の対比を意識しつつ説明したのとは対照的である。考古学者たちが、あの状況に違和感をいくばくも感じなかったというのなら、危機感が足らなすぎる。

 捏造などという常に生じうる事柄に戦々兢々とし、石器屋と土器屋、人工遺物と自然遺物などと何を物神として信仰するかをめぐって100年近くセクト化を保ち、長期的な展望に至るにあたってリスクとなるものが何か、注意を喚起するまでは手が回らない。

 戦後日本の考古学者のこの種の〝足腰の弱さ〟は、どうにも頼りない。科学の一分科を自認する周辺科学になめられても仕方がない。だが彼らでさえも、科学を信仰する宗教徒や原理主義者に他ならず、説明・弁明の態などあったものではない。

 考古学を大学で学ぶことで、生まれた土地の歴史を知るよすがとなると任じた。そんな私にとって、この状況に際しては非常に忸怩たるものがある。しかし予察という形ながらこの西村正衛の〝推奨〟が、残されている。これが記されたのが何十年も前でも、これ以上新しくなれないのが、戦後日本の考古学というものである。メディアミックスだろうが、ソフトがいかに新しくとも、読みとり・語るハードが古くては皮相で低俗なもの以外に仕上がることはないであろう。
、、、う〜む、我ながら、なんてウンコな議論なんだ。
いんやぁ、議論て態でもねえんじゃあね〜の??「アアッ?」
ラジカルて!?!
カルスタて!?!
 ラジカルかど〜かはともかく、カルチュラル・スタディーズというのは。ま。